【短歌】2018年5月21日~8月28日

台風の宵には空へ行くために逆さ上がりの補助台が待つ
どのくらい愛のこもった殴打なら一発で死に至れるだろう
逃げ出してしまいたい夜夏風邪で暑くて横の人は無口で
ケータイが無かったころの地球では迷子がちゃんと迷子であった
馴れ合いで生きているだけ本当に私が死ねば君は困るか
公営の住宅応募するようにあの世に住める日を待っている
幸せな成分だけを編み込んだ純度百パーセント思い出
何気なくどこでもドアを開いたらいつだって「死」が待つ夕まぐれ
お互いの細かく震う耳たぶを見ぬふりをせよ平和のために
切なさや初夏の気持ちを破壊して進むゲームだ今日も良い日だ
君が好きこの感情を乗り越えた処にきっと永遠がある
不幸しかもたらさないの好きになることや好かれることというのは
死にたいと強く思っている者を順に連れ去る神なら信ず
幸せに横死できたら幸せな想像だけがそこに残るの
きらわれてないと分かっているならば待つのもわりとわるくないもの
退屈のお蔭で祖母は死んだなら私も早く殺してください
雨水を底の破れた長靴に溜めてるようだ一人の夜は
後どれだけ生きて独りで過ごすのかプランク時間にて答えなさい
夕焼けはきらいじゃないよ昼は陽が夜は暗さがきつすぎるから
君たちと出逢ったわけはさよならをするためつまり詩を書くためだ
人間の縁は儚いものですね壁の陰からハリネズミ云う
もう怖くなくなったからカーテンを開けたら誰もいなくなってた
いつぞかに妹と祖母と囲みいし食卓ありぬ平和なりしか
どうしても金魚掬いが出来なくてさよならばかり味わっている
遺伝子の決勝戦を勝ち抜いて地球最後の人になってよ

【短歌】2018年4月17日~5月21日

返事のない手紙を書いたペンの為にお墓を建てたみんな不幸だ
暗がりにトイレにたちてスリッパの左右違えて寝れなくなりぬ
心臓が速く打ったらきっと早く死期が来るから酒を飲んでる
うっかりと床に落としてほどけきる糸巻の如早く死にたい
消えたいなら薬か酒を飲んだ後ベートーベンを聞いて眠るよ
捨てられることなどまるで怖くないいつでも閉店できる心だ
ふん転がしと糞が互いの存在に気が付いたとき世界が終わる
砂漠には踊る陽気な民がいるだが人生はまだ続くのか
「好き」という目には見えない網棚に大事な荷物置くようなこと
たそかれを過ぎても夫は帰り来ず闇が落ちれば何も見えない
人生で君に出会えて悔いはないだからもういい何も起こるな
失恋の数多の記憶それが人を強く或いは弱くするのだ
只一つ覆された愛あらば凡ての愛が怖くなるのだ
作文は本当のこと詩は嘘を書いてもいいんだよおかあさん
安全な場所を例えば部屋を得たならば引きこもるのが自然だ
いつかきっとゾンビ災害起こるから部屋から出ない俺は勝ち組
わたくしはわたくしという存在が要らない誰かもらってください
乱雑に羽や嘴やら足を生やした鳥を指に吊ってた
「学校に行きたくない」が罪ならば拘束されたい病気になりたい
岩陰の潮に佇む蛸の如脱ぎ捨てられし夫のパジャマよ
気が振れて暴れ回って嫌われたら眠り続ける夢が叶うな
寝返りが打てて褥瘡ができないすごい機能を我は持ちたる
敢えて言えば実に笑える死に方を考えるため生まれたのです
役に立たぬ無職の我を生かしいる夫よ貴方も共犯者なり
しばらくのあいだ掃除をしていない部屋を見たまえ此が地獄だ
変なこと言ってしまったこと忘れる為に言うのだ変なことをな
独り居て淋しい人と居て疲れるどちらがいいかせめて選べよ
コンビニのおにぎり達の世界ではニートに買われた奴は負け組
嗚呼僕は何の役にも立てないと俺に食われたおにぎりが言う
近付いてすぐ消えて行く人達は死んだわけではないかもしれん

【連想散文】メルヘン翁再考

さくらももこさんが亡くなった。

まるちゃんもコジコジも一枚絵もエッセイも好きだった。

(タバコをやめない理屈が印象に残っていたので肺癌かなと思ったけど違うんですね)

 

家族で読んで腹がよじれるほど笑ったエッセイの一つに『もものかんづめ』収録の「メルヘン翁」がある。

(家族に酷い振る舞いをしていた)祖父が亡くなって棺桶に詰められて花に囲まれている姿が可笑しかったというもので、家族の死を笑うなんてと物議をかもしたらしい。

次に出たエッセイ集の前書きか何かで、批判があったということを知ったが、そういう意見もあるだろうねという感想だった。面白かったからいいよと私は思っていた。

当時うちの家はまだ正常に家族していた。

 

最近、メルヘン翁たる祖父の家族に対する横暴が”認知症のふりをして”なされていたという情報を見た。

それは本当に認知症ではなかったのか、ちゃんと受診したのか、と思った。

私自身の家が平均的平穏(?)から外れて、「家族だからって仲良くすべきとは限らない」説に賛成して然るべきだった私だが、俄然、翁に味方したい気分になっていた。

 

しかし、全国の人々が今のタイミングでそうしただろうのと同じく私もさくらももこさん関係のことに改めて思いを馳せていたのだが、それで翁の件についてもう少し考えて気づいた。

身内含め私の周りの認知症の人たちを私は好きだ。しかしそれは彼らが偶然私に対して害を為していないからにすぎないのではないか。

誰かが誰かに害を為した場合、その事実だけを考えると被害者は加害者を恨んで然るべきだ。但し加害者が精神の病気で、害を為したのが病気のせいだった場合、頭では、加害者本人を恨むべきではないと考えられる。

しかし気持ちではそれができないという場面を私はよく知っていたではないか。それに思い至った。認知症だって当然例外ではないはずだ。

だからもし翁が本当に認知症だったとして、それは理性で翁を擁護する理由になりこそすれ、家族の苦しみや恨みを批判する理由にはなり得ない。

ポイントは直接に害を受けるという点なのかな。

【小説】妻についての短い話

冷房の効いた中華屋で昼食を食べているときにそれはふらふらと店内に入ってきた。若い店員がゴム手袋をはめ慣れた手つきで私の目の前に来たそれを捕らえて外に出そうとするところを、なんとなく譲ってもらって持ち帰り、娶った。

糸を吐くでもないので、部屋も汚れない。

ゆっくりとした動きが見ていて癒される。キャベツなどを与えると、本人の最高速らしい動きで一心不乱に食べている。

妻は私のことを生物個体として認識している様子はない。キャベツを与えるときもキャベツのことしか見ていない。あくまでマイペースで、どこかロボットのようでさえある。

本棚から中型の辞書が落ちて下敷きになってしまったときも、妻は直前と動きを変えるわけでもなく、前進しようと足を空中で動かし続けていた。辞書を退けてやると、何事も無かったように歩行を続けた。背中にはほんの少しだけ小さな傷がついていた。

そんな妻が最近私の背中に上ってくるようになった。上手く上るとおもむろにそこに陣取って日に当たっている。お気に入りの岩でも見つけたかのように、気がつくと背中に鎮座している。

まだ生物としては認識されていないかもしれないが、どうやら個体としては私は妻に認識されたようである。

【小説】差別の無い未来

倫理的な向上の過程は、直感を論理が、感情を理性が制していく過程である。

”場にそぐわないカテゴライズ”がかつて、差別や嫌がらせ、プロトタイプ的思考を生み出していた。

 

人類が陥り、やがて克服したものの一つに夏生まれ差別がある。

かつてあった、場にそぐわないカテゴライズによる不適切な発言。それは例えば、

「まだその仕事できてないの? これだから夏生まれは」

などである。今それ全然関係なくない?というところで出してしまうカテゴライズ。それが、場にそぐわないカテゴライズだ。そのカテゴリーの人にしか言わない言葉、

「暑いの平気でしょ」「夏休みに誕生日っていいなぁ」

等も夏生まれへの嫌がらせ的発言とされる。

同僚がどの季節に生まれたのかなど、もし知っていても今なら普段は意識に上らないのが普通だろう。

 

また他に、かつて未熟で問題とされて今は発達したものに性的モラルがある。性別に関する場にそぐわないカテゴライズも撲滅された。

すなわち、必要な場合以外性別など意識に上らない。

犯人の詳しい特徴がわかっても、性別はわからないことが多い。目撃者が咄嗟に意識できないのである。

映画やバイキングレストランなどの女性割引はなくなった。

太った人が妊婦と間違われて席を譲られてしまうようなことも、男女とも同じように起こる。

社会進出する女性の数のデータなども無い。分けて数えることをしないからである。

 

斯くして人々は直感を克服したのだ。

【小説】射撃練習場

新しい射撃練習場ができたので早速行ってみる。

ブースに入る。壁に大きく映像が流れる。先日私を振った恋人と私が仲睦まじくしている過去の映像だ。

なんて羨ましくて可哀想なやつなんだ。この後の展開も知らずに楽しそうにしやがって。

私はスクリーンが真っ黒に見えなくなるまで撃ちまくって、息を整えた。

なかなか良い練習場である。