【小説】ショーケース

僕は世界を救うために異次元に向かう。この世界を出れば僕に関する記憶は皆の頭から消えてしまう。物も記録も消えてしまう。僕ははじめから存在しなかったことになるのだ。それでもいい。世界が救えるのなら。

彼はそう言った。砂子は彼に懇願した。私だけはあなたを覚えていたい。忘れたくない。

彼は砂子にショーケースをくれた。水槽のような正方形のガラス容器。開く面は無く、中には触れられない。

このショーケースから君は僕を見ることだけができる。でも僕のことなど早く忘れて幸せになってくれ。

そう言って彼は行ってしまった。霧に霞む前方をにらんで。泣いているように少し肩を震わせて。

砂子はショーケースを見続けた。彼がこの世界にいたときと同じに、彼のことしか考えられない毎日だった。もうこの世界には彼はいないけれど、砂子の心の中とこのショーケースの中に彼はいた。彼はこの世界に戻ってくることはできないし、こちらの様子を知る術もない。この世界の誰一人彼のことを覚えていない。
砂子の彼を愛する気持ちはどこまでも確かなのに、彼の存在が自分の創作であるかのような気さえしてくる。同じようなことかもしれない。この世界において彼が存在したという事実は、砂子の元にしかないのだから。
彼に会いたい。彼が好きだ。砂子はショーケースを見続け、彼のことを考え続けた。

彼を愛し続けるのは苦しかった。彼を忘れたくない、しかし同時に彼を愛し続けるのを早くやめたかった。もう叶わないとわかっているのに、ショーケースを見るほどに彼に会いたいという気持ちはつのった。叶わないことを願い続けるのは、自分を否定し続けるのに似ていた。ショーケースがあるからこの苦しみは続くのではないか、もうこのショーケースを叩き割ってしまおうか、そう思うこともあった。一度砂子は本当にそれを床に叩きつけた。しかしそれは床に落ちる前にふわりと浮いてテーブルの上に戻ってきた。

長い時間がたち、砂子の苦しみも少しずつ薄れた。かつてあんなに砂子を苦しめたショーケースを見ても、かつてのような狂おしい願いは起こらなかった。もしショーケースの中の彼が一日歩けば行ける場所にいたとして、砂子は今はもう会いに行かないかもしれない。たまに消息を知って、そうかと思う旧友。彼は砂子の中でそのような存在になっていた。

やがて砂子は彼が命をかけて守った「この世界での」生活に戻っていった。
ショーケースは押し入れの奥にしまわれ、それが何であったかも忘れられた。砂子の頭の中で彼は然程重要でないたくさんの記憶のうちの一つとなっていた。
ショーケースはまだ存在する。しかし砂子にその中の彼はもう見えなかった。