【思考】反出生主義について4

幸福を作る善度合より同量の(?)不幸を作る悪度合の方が大きい、という感覚は私にもある。
それはなぜなのだろうか。なぜそう感じるのだろう。
(前の3の記事での幸不幸対称の論はどこかに間違いがあるのだろうか?)
 
この感覚を進化の過程で取得したと考えてみる。
原始人がマンモスを狩っている。もう少しで仕留められるが、このまま進むと狩りチームの一人が死んでしまう危険がある。そのときどうするのが有利か。人間は一度に産まれる子供の数が少ない(!)ので、一人一人を失うのは痛い。なので不幸を避けるべきである。
そんな感じで不幸を生じさすほうによりだめさを感じるようになったとすれば、その感覚をそのまま出生に当てはめるのは自然主義の誤謬というか。
私たちの持っている感覚が進化の過程で残ってきたものなら、それは生き残ることに有利なものが残っているはずだ。
それを、現代人が理性で編み出した考えに当てはめたらおかしなことになるのではないか。こう感じる、ということがあるならそれはなぜだろうと考えるか、どう感じるのかは廃して理詰めで考えた方が楽しいし生産的だと思う。
 
 
道徳的に出生を悪とすべきかは私にはまだわからない。
しかし、親になりうる者たちが、今後出生を選ばなくなっていくということはありうると思う。子を持つメリット群よりデメリット群のほうが大きいと考えるようになるという形で。調度、個々の消費者が安い物を選ぶように。
しかし、遺伝子的には子を持つという選択をした親の子供が次の社会の構成員になっていくので、子を持たないという選択をするという性質が受け継がれていくとすれば、それは個人個人のインターネットでの考え方の発信など、文化的遺伝子によるだろう。