【思考】この視点1/準備

この身体-この視点-私

(※おまけ)
各々の身体-(仮説)各々の視点


●この身体
この世界にある人間の身体の内、私が乗っているもの。
脳を含めた科学的機構。電気信号、代謝、物質を取り込んでは排していくまとまり。統率された細胞たちの集まり。
感覚器官からの入力に対してこれまでの記録や本能に照らして運動器官へ出力を返す素晴らしく精密な計算機。

●この視点
この身体の入出力に平行して、それを自分が行っているかのように感じる中の人。
以前ののブログ『夕暮れ散歩道』では「観測者」と呼んでいた。この身体(や、他のあらゆるもの)に対して何か働きかけることは決してできず、ただこの身体を通り抜ける感覚や思考や意思や動きを観測しているだけの存在として。本当にそうなのかは少し保留。
「それを自分が行っているかのように感じる」。今回はこれを重視して考えてみたい。それに伴って呼び方も「この視点」とする。
とりあえず普通に考えれば、入力を受け取り計算して出力を返す自立的機構である身体になぜか伴って生じる、それを自分が受け取ったり考えたり行ったりしていると感じている、そんな生物学的に何のためにあるのかさっぱりわからないもの、それがこの視点だ。
しかしここでは、この身体、特に脳の活動を自分の支配下にあるかのように内側から、しかもほぼタイミングぴったりに受けとるというこの視点、これが存在することに、何か理由があるとすればそれはどんなものが考えうるか、それを考えてみたい。

●私
この身体とこの視点に乗っている者。私がこれであるから、”この”身体、”この”視点、と呼ぶわけなのだが。
この視点はただ開けているわけではなく、謎の視点がここにある、とわかるのも、その視点に居るのが私だからである。
なので、この身体以外の身体にそれぞれ視点が存在するということは仮説にとどまる。他の身体にも、この視点に似た各々の視点が存在すると考えることは可能である(多分…)。なのでまず「視点」を考える。そしてそこに私が居るような視点を「この視点」とする。

●(仮説)各々の視点
この身体にこの視点があることから類推して、他の身体たちにも同じように視点が開けているとする仮説。これに近いものが「他人の意識」と呼ばれることもあるかもしれない。


確実に存在する視点は他の身体にある視点ではなくこの視点である。なので「この身体-この視点」をサンプルとして考える。そうせざるをえない。そこでは一旦、この視点が私の視点であることは自明として考えることになる。他の身体にもそれぞれの視点があるという予感はあるが、その予感も伴いながらこの身体とこの視点をサンプルに取る。「-私」の部分は今はスポットを当てない。私が居ること、一つの視点に居ること、も、非常に興味深い問題であるが、別の機会にゆずる。(ちなみに私が居なければ消えるのは、この視点だけでなく、この身体と他の身体とこの視点と仮説としての他の視点と身体以外の世界、全てである。)

この視点に私がいるから、この視点が存在することがわかった。だからこの「この身体-私(=この視点=観測者)」としてしまいそうだ。しかし、この視点と私は不可分なわけではない。そういう方向からこの視点というものについて考えるというやりかたがあるのではないか。
準備とか言いつつ、それを思い付いたことがほぼ全てのようなものだが。