【考察】観測者(2006・7・30頃の物の再掲)

●我思うゆえに我あり<1>

私の考えたことの筋をたどるために、まず、

「私がうろ覚えで適当に認識していたところの、デカルトの思考」

について語らねばならない。

実際のデカルトについて知りたい人は、
彼の著書でも読んでください。

 

ではまいります。

 


デカルトは、本当に確かなものは何かを考えるために
まずすべてを疑ってみた。

こんな仮定をする。

もし自分が見ているもの聞いているものが
悪霊によって見せられている偽物の世界だったら。
そうだとしたら、自分はこれを見破ることが出来るだろうか?

出来ない。
では見て聞いて触れているこの世界は確かではない。

次にこんなふうに考える。
では、数学などの論理はどうだろう。
自分は頭の中でこう思う。

1+1=2

これは確かなんじゃないのかな?
いやいや待て。
1たす1は本当は3である、ということはありえないだろうか。
本当は3であるのだけれども、
悪霊がいつも私が計算間違いをするように操っているのかもしれない。
だから論理だって確かじゃない。

それじゃあ何一つ確かなものなんてないのだろうか。

 

だけど。

この世界の景色を見たり、
1+1=2だと思ったりしている者がいる。
それを思考しているものがいる。

これは確かだ!


そうして彼はこう言った。

「我思うゆえに我あり。」


●我思うゆえに我あり<2>

何年か前「ソフィーの世界」を読んだ。
途中まで読んで、突然こんな不安におそわれた。


「私がやることなすことすべて、外から来たものなのかもしれない」

だいたいこんなかんじの不安。


そのときは、疑問に感じていることが何なのか、
自分でもよくわからなかった。

只、突然やってきた疑問で
寝ても覚めても頭の中がいっぱいだった。

それが終わったのはこのような考えからだった。
「私は居るんだから、いいや。」

 

その時に私が何を疑問に思って、
そして何を思って安心したのか。

最近になって、それがわかった気がした。

(自由意志について考えたり、
 デスノートの最終巻を読んだりしたときだった。)

考えたのは、こんなようなこと。

 

デカルトが探していた確かなこと。
その答えは本当に「我思うゆえに我あり」でいいのか?

デカルトはこのように考えた(と私はうろ覚えしている)。
1.見聞きしている世界は確かじゃない。
2.数学などの論理は確かじゃない。

3.「私は考える」は確かだ。

ゆえに、「私は在る」。

 

しかし、3の「私は考える」は本当に確かだろうか。
私は本当に、能動的に考えているのだろうか。

「1+1は2じゃないかもしれない。
だけど答えが間違っていたとしても、
私が1+1を計算しているのは確かだ。」
と彼は言う。

だけど彼は本当に、能動的に1+1を計算しているのだろうか。
1+1を計算しよう、と思って計算しているのは本当に彼なのだろうか。

1+1を計算しよう、と思わせたのさえ、
悪霊であることが可能なのではないか。

 


「考える」ではなく、「考えさせられている」のかもしれない。

「私は考える→ゆえに私は在る」
の仮定部分が確かではなくなってしまった。


では、本当に本当に、確かなものなんて何一つないのかもしれない…(´・ω・`)

 


だけど。
(と、私はここでデカルトの最後の一激をもう一度真似してみる。)

1+1を計算させたのは悪霊かもしれない。
視線を上げさせ、棚の上のお菓子を見させたのは悪霊かもしれない。

だけど、だけど、

今自分が視線をあげて棚の上のお菓子を見た、
ということを認識した何者かがここにいるのだ。

自分が今1+1を計算して2という答えを出した、
ということを観測している何者かがここにいるのだ。

それは確かである。

 

斯くして私は言う。

「我観測す、ゆえに我あり」

 

 

補足:もしかしたらデカルトの言いたかったことはこっちで、元々彼の言った
「Je pense, donc je suis」はこれを意味しているのかもしれないな、と思ったり。

 

●我思うゆえに我あり<余談>

「私」とは何かを議論するためには、
今ここでいう「私」の言葉の意味をみんなで決めてしまってから
議論しなければならない。

よく考えてみたらデカルトは、「私」を見つけようとして
このような懐疑を始めたのではなく、確かなものを探したら、
偶然それが「私」だったのだ。

デカルトは懐疑の末に確かなものを見つけた。
「確かなものは“これ”だ!」と思った。
彼が自分の見つけた“これ”に名前を付けるとき、
彼にとって一番しっくり来るのが「私」だった。

だから彼はその言葉を使ってこう言った。


「我思うゆえに我あり。」


●観測者

デカルト的懐疑が行き着くべきところは、
「我観測す、ゆえに我あり」だった。

つまり何をどう疑っても、観測者である私が存在することは、
確かですよ、ということだ。

私というものは、少なくとも観測者として存在しているということだ。

 


ではここでもし、試しに、実在世界の存在を公理に据えてみたら
どういう結果が出るだろう。

デカルトの懐疑では真っ先に捨てられた、
物理法則に従う物質の世界を、勝手に確かだと仮定して話を進めるのだ。

ただし、観測者である私がいる、ということも確かであるとしよう。
これはどうしても確かであるように思えるので。

 


私(仮にハナコとしよう)が棚の上にあったクッキーの箱を見つけて箱を取る時、
どんな事が起きているか。

箱から出た光がハナコの目に入り、
入力された信号は視神経を伝わり、脳に到達する。
そして信号は脳によって適切に処理され、別の信号に形を変え、
それが腕の筋肉へと伝わり、箱を取る動作として出力される。

これだけのことだ。
万事解決。

しかし。

現在では、そんなふうだとほとんどの人が思っているこの過程。
この過程において、もう一つ、起きていると思われることがある。


それは、観測だ。


●観測者の崩壊

衝撃は<リンク:http://myrmecoleon.sytes.net/lib/archives/2005/11/post_34.php>myrmecoleonさん</リンク>の提示した、こんな問いから始まった。


 「私は観測する、よって私は在る」の、私とは何を指すのか?


一見、わかりきったことのように思える。
「そんなの観測者のことに決まっているじゃないか」
しかし。

「私は観測する、よって私は在る」
というのは、思考、である。

普通、発言における「私」などの一人称は、発言者を指すけれども、
観測者は思考しないので、(頭の中ででも)何も発言することが出来ない。
観測者は思考せず、観測するのみであるのだ。
つまりこれは観測者の発言ではありえない。

で、「私は観測する、よって私は在る」という文中の
「私」とは、文法に従えば、
発言者である「思考する何者か」を指すことになる。
これは変だ。


それではこう言い換えたらどうか。
「私」という指示語が問題なのだから、

「観測者は観測する、よって観測者は在る」

こんなふうに。


これで言葉の上では解決したように見える。
しかし、果たしてこれだけのことだろうか。
この問いは、もっと大きな何かを含んでいる気がする。

 

そうだ。

「観測者は観測する、よって観測者は在る」
これの前提部分、「観測者は観測する」。
これを言っているのは「思考する何者か」だ。

しかし、思考する何者かは、いったいどうやって
それを真だと出来たのだろう。

「ここに観測者がいる」と知ることが可能なのは観測者だけである。
よって思考する何者かは「観測者は観測する」なんて知らないのだから、
「真である」としてそんな発言をすることはできない。

そして只一人「ここに観測者がいる」と知ることが出来るはずの観測者は、
思考する(「知る」も含めて)ということが出来ないのだからそんな発言ができるはずもない。

つまり、誰かによってなされるすべての
「観測者は観測する、よって観測者は在る」
という発言は、前提が真であるかどうかわからないままなされている、
空っぽの発言ということになる。


●観測者の首の皮

「観測者は観測する」

この言葉で観測者の存在を示すことは出来なかった。

しかし、観測者は居る。
どうしたって、居るように思える。
なのにどうして示せないんだ?

示したい。示したい。
どうにかして示したい。

というふうに、なんとかして観測者の存在を示そうと
私が躍起になっていると、妹が言ったのだ。

「別に、示せなくたっていいんじゃない?」

彼女は別に、私よりたくさん考えてこういうことを
言ったわけではないらしい。
しかし私は彼女の発言により、忘れていた重要なことに気付いた。


  「『観測者が居る』と示せない」
   ということは、
  「観測者が居ない」ことを意味してはいない。


「今のところ示せない」のでも「原理的に示せない」のでも同じである。

「『観測者が居る』と示せない」
それは、「観測者が居るか居ないかわからない」ということを意味している。
(示せたならばそれは文字どおり、「居る」ことを意味している。)

実在世界があると示せないことは決して、実在世界がないことを証明しない。
論理が正しいと示せないことは決して、論理が間違っていることを証明しない。

それと同じで、別に、「観測者は居ない」と示されたわけではないのだ。

 

どうやら観測者はまだ首の皮一枚でつながっているらしい。

というわけで、これからは少し安心して、
また観測者を探っていこうと思う。


●観測者と仲間たち

在るか無いかわからないものはたくさんある。

実在世界。
この部屋のどこかに居るかもしれないカバ。
5分前以前の世界。
他人の心。

そして、観測者。


観測者も、「居るか居ないかわからない」と言う点では
これらと同じ仲間である。

しかし観測者にはこれらと区別すべき特徴があることも
また事実である。

それは、

「どうしても居る」と思える

ということ。

その特徴。
そこにはきっと何かあるはずだ。


●観測者と哲学的ゾンビ

「我観測す、ゆえに我あり」
という、空っぽの発言がなされる不思議。

それは哲学的ゾンビ
「我思うゆえに我あり」
と発言する奇妙さに似ている。

そこには「思っている誰か」なんて居ないのに、
平然とそんな発言がなされている。

ここで、哲学的ゾンビを、
「観測する主体が居ない人間」
と定義してみよう。

そして、そんな哲学的ゾンビと、
観測者が居る普通の人が、それぞれ
「私(=ここでは観測者を示すとしよう)は観測する」
と言った場合。

哲学的ゾンビの発言はもちろん奇妙だが、
普通の人の発言だって、同じように奇妙なのだ。

哲学的ゾンビには「私」は居ないし、
普通の人における思考する何者かだって「私」が居るかどうか知らないのだ。

中の人が居る普通の人だって、
ただの「観測者付き哲学的ゾンビ」に他ならないわけだ。


●ゾンビたちの論理パズル

観測者が付いているのかいないのかはかまわず、
ランダムにそこらへんにいる哲学的ゾンビたちを
集めてきたとしよう。
要するに、普通にそこらへんにいる人を集めてくるのである。

そしてゾンビたちに、こんな論理パズルを出す。
「あなたには観測者が付いていますか?それともいませんか?」

ゾンビたちは考える。
ときには隣のひとと顔を見合わせたりして考える。

そして理論上は、こんな結果になるはずである。
みんな口をそろえて「わかりません」と言いました。と。

しかし。

よく考えてみてほしい。
本当にそのへんにいる人を集めてこの実験をしたらどうなるか。
理論上ではなく、結果に千円ぐらい賭けるつもりで。
(その人たちは、私が言う「観測者」の意味とかこれまでの話は知っているものとする。)

彼らはきっとこう言うだろう。

「『理論上はわからない』ってことはわかるんだけど、
どうしてもいる気がするんです」

それが、ゾンビたち(=思考する者)の出す結論だ。

これはいったいどういうことなのだろう。
ゾンビたちの思考回路は、こぞって観測者の幻想を見るように
作られているというのだろうか?

いったいどうしてどうやって、
彼らはこう考えるようになるのだろう?