【小説】おばあちゃんと甦る千手さま

おばあちゃんが亡くなったあとの、病室の片付けは簡単なものだった。おばあちゃんはほとんど荷物を病室に持ってきていなかった。

ほぼ空の引き出しに、紙切れが一枚入っていた。自由の利かなくなった手で、できるだけ丁寧に畳んであるように見えた。開くと、筆圧は低く文字は力無く歪んでいたけれど、そこには律儀なおばあちゃんの字が並んでいた。

 

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千手さまが来てくれなくて寂しい。

それが辛くて耐えられないので、せんじゅさまに焦がれるのを、やめます、

もう待たない。さようなら、

助けがなにも無い、きょむです。ひとりに慣れるように。

千手さまというひとが来てくれました。

せんじゅさまが居てくれるのが何よりうれしいです、

私はこのひとを慕う。

思い出しました。

この手が、せんじゅさまの手が同じか知りませんが、私は初めてこの手をしたう、

先日の焦がれは死にましたので。

 

これは、何度も繰り返しました、

苦しかったけれど終わって、でもまた違う焦がれをはじまる。どうしてもそうなので、もういい、

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千手さまはおばあちゃんにとって、最後の最後まで彼女の中心だったのだ。おばあちゃんは千手さまを常に側に感じることができたはずだけれど、それが安心できる程度なことも、そうでないこともあったのだろう。そうでないときは、おばあちゃんは千手さまを求め、求めるだけ得られないときは、彼女の物語は一度終わった。彼女はしばらく脱け殻として生きた。千手さまは彼女の認識から消えた。

そして再び彼女は千手さまと出会う。再び初めて出会う。そしておばあちゃんは千手さまに焦がれる。この今の目の前の千手さまに初めて焦がれる。

それをずっと繰り返してきた。そういうことだろうか。

何年も何十年も。慣れてしまうくらいに、おばあちゃんの人生はそれほどまでも千手さまへの狂おしい希求で塗り尽くされていたというのか。

 

押し入れの奥の段ボールの中の小さな箱に、その紙をぼくは仕舞った。引っ越しのときなどにその箱が眼に入れば、ぼくは少し、おばあちゃんの人生を占めていた想いのことを考えるのだ。