【小説】過去の集合が私達を救いに来る話

時計を見ると授業は残り三分の一程度だった。なんの授業だったかは覚えていない。ここ一年ほどいつも頭がぼんやりしている。ずっと度のあわない眼鏡をかけたように世界は見える。回らない頭に授業の内容を詰め込もうとする。うまくいくはずもない。なんの授業かもわからないのだ。このままではまずいとなんとなくわかっていたが立ち止まって方策を立てなおすべきだと思える思考力も残っていなかった。もう長い間全力で泳いでいるのに少しも前に進まない。疲れていた。そう、ぼんやりした頭を抱えたまま、その授業中になぜか突然気付いた。

何をしてもいい。本当は何をしてもいい。

ふいと立って何も持たずに教室を出た。追ってきた教師を突き飛ばして走った。自宅に着くと台所では産休中の母が何かの肉を切っていた。そういえば幼い時、この女に首を締めて殺してくれと言われたことがあった。真剣な親に子供は逆らえない。憑かれたように力を込め続けた。しかし幼児の握力で大人を締め殺せるはずもなかった。突然帰ってきた我が子に女は一瞬驚き、そして子を責めるべく表情を歪めた。子が小さかった頃のように脇に抱えてあるべき場所へ押し戻そうとした。子は怯えた。しかし自分が既にこの女には抱えきれない大きさになっていることに気付いた。子は思い出した。この女の腹の中の人間は長じてから、生まれたくなかったと繰返し嘆いていた。自分もそうだ。子は包丁を取りその妊婦の腹を刺した。その刃物をそのまま自分の首に勢いよく這わせた。古びてもろくなった時間は簡単に裂けた。視界が消える間際、背後の悲鳴はほとんど聞こえなかった。自分の笑い声がうるさかったから。なんでもできるのだと知ったから。