【小説】目覚めの怪談

目が覚めると、今がいつかわからないことがある。何時だ、朝か夜か、何曜日か。疲れて長く眠ったときや、変な時間に昼寝を始めてしまったときになる。

今もそうだった。いつだろう。時計を見る。止まっていた。そこらじゅうにほこりがたまって、部屋全体に薄く灰色の雪が積もったようだった。それを踏みながら歩く。どの部屋の時計も端末もみな電池切れで今がいつかわかるものはなにもなかった。
鏡が目に入った。不健康そうな老人がうつっていた。私は三十代だったはずだ。驚いたが、嬉しくもあった。ずっと早く人生が終わればいいと思っていたから。早く老いたいと思っていたから。突然激しい胃痛に襲われて私は床に倒れこんだ。手足の先から感覚がなくなっていき、意識が吸い取られるように急激に薄くなった。死だ、と思った。体は堪えがたく痛んだが最後のとき私はきっと微笑んでいたと思う。やっと解放された、と。


目が覚めると、今がいつかわからないことがある。何時だ、朝か夜か、何曜日か。疲れて長く眠ったときや、変な時間に昼寝を始めてしまったときになる。

今もそうだった。いつだろう。時計はなかった。私の部屋もなかった。なんだか狭い空間に浮かんでいるようだ。腹から生えている紐のようなものに手が触れた。体の周りは液体で満たされているようなのに呼吸は苦しくない。自分の鼓動の他にもうひとつの鼓動が間近で響いている。胎内。まさか。私は死んだはず。否、死んだのに意識があるのはどういうことか。
さきほど起こったこともおかしかった。夢。胡蝶の夢。私はここで三十数年と一日の長い長い夢を見ていたのか。あんなに苦労して生きたのに。やっと解放されたと思ったのに。すべて夢だったというのか。
鈍く殴られたような絶望。これから、人生を、始めなければならないのか。
だめだ、嫌だ、そんなことはまっぴらだ。私はへその緒を再び探り当てつかみ引きちぎろうと力を込めた。突然力が抜けてそれは叶わなかった。嫌だ、助けてくれ、このままでは。声は出なかった。この恐怖を表す言葉を私はもう思い出せなかった。私にあるのは最早二つの感情、快と不快だけだった。そして私が感じていたのは吐き気のするような不快だった。
空間の外側から幸せそうに笑う声が聞こえた。それは悪魔の笑い声のようだった。