【小説】悲しいことを思い出す

悲しいことを思い出す。
刺繍糸を切るとき。サックスの音を聞いたとき。
朝起きたとき。雨が降ってきたとき。
去ってしまったもののことを思い出す。束の間だったことを思い出す。
いつもそうだった。ずっと繰り返してきた。失う。エントロピーの隙間にできた束の間の秩序のような幸せが崩れていく当たり前を。
水素の塵が集まって、束の間笑ったように見えたこと。風が砂を吹き上げて、一瞬幸せそうだったこと。
そして、あまりにも当たり前に元の寂莫に戻ったこと。なによりも、何度でもそれを忘れたこと。

それでも愛みたいなものがあるのではないかという妄想を抱いていたい。嘘でも信じたまま死にたい。一瞬の塵の集まりを、幸せだったことを忘れても、意味のない粒子の吹き溜まりを、なんだか楽しかったと思って死にたい。寂しくても笑っていたい。全てが消えてしまうことを知っている。だけれど最後の最後にこの意識が消えることが悲しいか?
嬉しいことが嬉しい。楽しいことが嬉しい。寂しいことが嬉しい。悲しいことが嬉しい。全ての塵の集まりを祝福しよう。

何かが失われることが悲しいなんてそんな馬鹿な。明日死ぬかもしれないのに。既に全てはあらかじめ失われているのに。私は今にしか存在しないのに。明日の幸せも明日の悲しみも存在しないのに。今のこれが幸せの最後であり悲しみの最後であり切なさの最後であるのに。全ては既に失われている。むしろはじめから。秩序は夢だ。全てが質点であるところからの夢だ。
記憶が意識の上を流れていく。悲しくもない。嬉しくもない。ただ呆っとやり過ごす。それが全てだ。生まれてから死ぬまでの。
何か悲しいことがあったのか。あるいはそうかもしれない。記憶が意識の上を流れていく。そんな色に見える。そうであるらしい。意識の上を誰かの記憶が流れていく。誰かの感情が表出する。私はそれを自らのもののように錯覚しながら、水色を白を畳んでは広げて組んでいく。その作業が一つ一つ悲しい。そうであるらしい。そういうようなものを私はまるで自らのもののように錯覚している。
塵の集まりの中に出来たらしい意識が世界の全てを映し出し生み出し、同じような意識がこの海のどこかにあると盲信し、渇望し、震えている。そんな寂しい光景をまるで自らのものであるかのように私は、水色や白を織りあげていく度に悲しい。それがまるで他人のものであるかのように、甘い。許されている。全てを終えていいのだ。それが悲しみであるので、甘い。
じくじくとかさぶたをつつく連想。それに気付かない振りをしながら畳んでは広げる。実際一瞬後にはもうその痛みは存在しない。なぜなら過去の痛みは存在しないからである。
道行く、私には関係のない人たち。一瞬立ち止まって去ってゆく人も、彼らとなんら変わらない。私はその人たちを少しも理解しない。私は私の意識の上を流れていく他人の形をしたものや自分自身の形をしたものを一切理解し得ない。

例えば、母親が宇宙人であった。父親が地底人であった。子供が他人であった。好きな人が幻であった。自分の思考が誰かの思考だった。そんなとき必要なのは、新しい事実に慣れることである。状況を理解し、出来るだけ速やかに、最も端的な言葉に変換していくことである。そうして過去の認識への未練を素早く断ち切ることである。過去の認識が誤りであることを受け入れ、新しい状況を親しい現実として認めることである。古くからの友のように思うことである。過去を自分の生まれるずっと前の、遠い遠い歴史のように忘れ得たとき、新しい認識、確固たる現実はとても優しく親しい面持ちで接してくる。長くて一週間、短くて二日でそれに慣れることができるはずである。新しい認識が旧知の友のようになる。
そもそもなぜ新しい認識より古い認識のほうが好ましいと思ったのか。何を、何かを偏愛いしていたのか。

いつか死ぬなら、何を失うことも怖くないだろう。それをもっとしっかり説明せねばならない。

というか、そんなことって結構あるよね。というか、大概そうだよね。ほぼ全てそうだよね。逐一驚いていたら疲れて死んでしまうよね。ああ疲れた。

というかいつか死ぬのだから良いではないか。悔しくても。不快だったけれども過ぎてよかった。もう過ぎてよかった。よくあったことだ。そしてまた過ぎてよかった。