【小説】マモノとコイ

マモノとヒトの違いのひとつに、次のような点もある。ヒトはコイをしないが、マモノはコイをする。ヒトは自分たちの打算のようなものを恋と呼び、マモノのコイもそれと同じような冷静なものだと考える。しかし、それらは全く違うものである。
マモノにおけるコイは疾病のひとつである。だれもが、できれば避けたいと思って過ごしている。そして患ってしまえば、当然だが自力で回避できるものではない。病院で薬を処方してもらって症状を軽減させられるマモノもいるが、数は多くない。というのも、ヒトの影響でコイと恋を混同し、病気ではないと思い込んでいるマモノも多いからである。
コイを患ったマモノの思考は四六時中、赤紫にとぐろを巻く苦しみに支配される。
コイが昇華する場合も理論的には存在する。あるマモノのコイが向いている相手が、向こうもそのマモノに向けたコイを患うという場合である。只それが起こる確率は、(全可能世界の中の全てのものー1)分の1であり、事実上あり得ない。
苦しみに支配されたマモノは、前後不覚に陥り、体中を襲う痛みに耐えきれずもがき転げ回る。ヒトにとってそれは迷惑であり、貪欲で恥じらいのない行動である。
コイが向かう相手が、恋あるいは友情を返してきたり、利潤を得られる対象として興味を示してくる場合もある。それが一番危険な状態である。薬もなかなか効かず、死に至ることもある。

マモノの病の因子の一つに、世界の様相がある状態になることを欲するというものがある。それを専門用語でノゾミという。コイ等の疾患にかかっているマモノに処方される薬の代表的なものは、このノゾミの症状を解消するものである。ノゾミを忘れさせる、欲するもののことを忘れさせる効果がある。これはマモノの病苦を和らげることにに非常に効果がある。ただ、ノゾミが消えるのを嫌がり、薬を拒否してそのまま死亡してしまうマモノもいる。
また、薬などに頼りながら、大きな一つのノゾミではなく、小さな沢山の好みを持つことも、病状を軽減させるのに有効である。
ヒトなど、コイを発病することのない者のことを、マモノの言葉でホトケという。また、その状態をサトリという。マモノはサトリに憧れている。そこに達することはマモノ達の夢である。薬に頼ることで、その状態に近付けることもある。