【連想散文】メルヘン翁再考

さくらももこさんが亡くなった。

まるちゃんもコジコジも一枚絵もエッセイも好きだった。

(タバコをやめない理屈が印象に残っていたので肺癌かなと思ったけど違うんですね)

 

家族で読んで腹がよじれるほど笑ったエッセイの一つに『もものかんづめ』収録の「メルヘン翁」がある。

(家族に酷い振る舞いをしていた)祖父が亡くなって棺桶に詰められて花に囲まれている姿が可笑しかったというもので、家族の死を笑うなんてと物議をかもしたらしい。

次に出たエッセイ集の前書きか何かで、批判があったということを知ったが、そういう意見もあるだろうねという感想だった。面白かったからいいよと私は思っていた。

当時うちの家はまだ正常に家族していた。

 

最近、メルヘン翁たる祖父の家族に対する横暴が”認知症のふりをして”なされていたという情報を見た。

それは本当に認知症ではなかったのか、ちゃんと受診したのか、と思った。

私自身の家が平均的平穏(?)から外れて、「家族だからって仲良くすべきとは限らない」説に賛成して然るべきだった私だが、俄然、翁に味方したい気分になっていた。

 

しかし、全国の人々が今のタイミングでそうしただろうのと同じく私もさくらももこさん関係のことに改めて思いを馳せていたのだが、それで翁の件についてもう少し考えて気づいた。

身内含め私の周りの認知症の人たちを私は好きだ。しかしそれは彼らが偶然私に対して害を為していないからにすぎないのではないか。

誰かが誰かに害を為した場合、その事実だけを考えると被害者は加害者を恨んで然るべきだ。但し加害者が精神の病気で、害を為したのが病気のせいだった場合、頭では、加害者本人を恨むべきではないと考えられる。

しかし気持ちではそれができないという場面を私はよく知っていたではないか。それに思い至った。認知症だって当然例外ではないはずだ。

だからもし翁が本当に認知症だったとして、それは理性で翁を擁護する理由になりこそすれ、家族の苦しみや恨みを批判する理由にはなり得ない。

ポイントは直接に害を受けるという点なのかな。

【小説】妻についての短い話

冷房の効いた中華屋で昼食を食べているときにそれはふらふらと店内に入ってきた。若い店員がゴム手袋をはめ慣れた手つきで私の目の前に来たそれを捕らえて外に出そうとするところを、なんとなく譲ってもらって持ち帰り、娶った。

糸を吐くでもないので、部屋も汚れない。

ゆっくりとした動きが見ていて癒される。キャベツなどを与えると、本人の最高速らしい動きで一心不乱に食べている。

妻は私のことを生物個体として認識している様子はない。キャベツを与えるときもキャベツのことしか見ていない。あくまでマイペースで、どこかロボットのようでさえある。

本棚から中型の辞書が落ちて下敷きになってしまったときも、妻は直前と動きを変えるわけでもなく、前進しようと足を空中で動かし続けていた。辞書を退けてやると、何事も無かったように歩行を続けた。背中にはほんの少しだけ小さな傷がついていた。

そんな妻が最近私の背中に上ってくるようになった。上手く上るとおもむろにそこに陣取って日に当たっている。お気に入りの岩でも見つけたかのように、気がつくと背中に鎮座している。

まだ生物としては認識されていないかもしれないが、どうやら個体としては私は妻に認識されたようである。

【小説】差別の無い未来

倫理的な向上の過程は、直感を論理が、感情を理性が制していく過程である。

”場にそぐわないカテゴライズ”がかつて、差別や嫌がらせ、プロトタイプ的思考を生み出していた。

 

人類が陥り、やがて克服したものの一つに夏生まれ差別がある。

かつてあった、場にそぐわないカテゴライズによる不適切な発言。それは例えば、

「まだその仕事できてないの? これだから夏生まれは」

などである。今それ全然関係なくない?というところで出してしまうカテゴライズ。それが、場にそぐわないカテゴライズだ。そのカテゴリーの人にしか言わない言葉、

「暑いの平気でしょ」「夏休みに誕生日っていいなぁ」

等も夏生まれへの嫌がらせ的発言とされる。

同僚がどの季節に生まれたのかなど、もし知っていても今なら普段は意識に上らないのが普通だろう。

 

また他に、かつて未熟で問題とされて今は発達したものに性的モラルがある。性別に関する場にそぐわないカテゴライズも撲滅された。

すなわち、必要な場合以外性別など意識に上らない。

犯人の詳しい特徴がわかっても、性別はわからないことが多い。目撃者が咄嗟に意識できないのである。

映画やバイキングレストランなどの女性割引はなくなった。

太った人が妊婦と間違われて席を譲られてしまうようなことも、男女とも同じように起こる。

社会進出する女性の数のデータなども無い。分けて数えることをしないからである。

 

斯くして人々は直感を克服したのだ。

【小説】射撃練習場

新しい射撃練習場ができたので早速行ってみる。

ブースに入る。壁に大きく映像が流れる。先日私を振った恋人と私が仲睦まじくしている過去の映像だ。

なんて羨ましくて可哀想なやつなんだ。この後の展開も知らずに楽しそうにしやがって。

私はスクリーンが真っ黒に見えなくなるまで撃ちまくって、息を整えた。

なかなか良い練習場である。

【小説】箱庭

箱庭がある。箱庭療法で使うような箱庭を思い浮かべれば良いだろう。
箱庭の中には家がある。ちょっとした庭のある、比較的大きな家である。家には現在三人の人間が住んでいる。四方を壁で囲まれた箱庭の中だけが彼らの世界だ。
そこにははじめ五人の人間が住んでいた。十年前に一人が量子力学的奇跡によって箱庭の壁を越え、外に出た。その一人は箱庭の外、すなわちこの世界の住人になった。そして外から箱庭を見ることができるようになった。それがこの物語の書き手である。
箱庭の中の人間はそこが箱庭だと思っていないだろう。
一年前に残った四人のうち一人が死んだ。そして三人になった。
 
箱庭の中の家は幸せな家庭であったが、あるときアクシデントが起き、その中の人たちは苦しみだした。
十年前にそこを抜けた一人は、そこから出たいと切に願っていた。それゆえ奇跡に乗ることができた。そうして箱庭の呪いから開放された。
 
十年たった箱庭を上から覗く。箱庭の中の人には感じられない次元から。
箱庭を出た一人は、呪われた場所に置いてきた人たちを憐れみ、申し訳なく思った。
しかし箱庭の人々は幸せそうに見えた。
 
あの箱庭が呪われていたという信念はその一人だけのものだったのだろうか。
あるいはもしかして、箱庭など存在せず、箱庭だと思っていたものは元々この世界と地続きの平凡な一つの場所でしかなかったのだろうか。
 

【小説】理想郷物語

南半球のとある小さな島に、珍しい生態系が存在した。
ヒトから枝分かれしたその生き物は、ヒトの子供並みの知能と体力しか持たなかった。しかしその島は外敵が少なく、淘汰されず生き残った。
その生き物の寿命は十二年ほど。細胞数はヒト並みだが、分裂で増える。性別は無い。性質はおとなしく、謙遜と馴れ合いを常とした。
島は暖かく、住居や服は必要ない。また、彼らは気温等の一定の条件下で光合成を行った。島の環境はそれにも適していた。エネルギーはそれでまかなえるので、彼らは食物を摂取しない。
なので彼らは生存のために何かをする必要が無く、ひたすら静かに遊び暮らした。
姿はヒトの女児に似ていた。荷物を運ぶのに、赤い箱形の背負い鞄が用いられた。
彼らは島の環境のわずかな変化で、絶滅してしまったと言われている。