【小説】三分生命体

少しでも気に入ってもらえているかもと勘違いしたくない。次に期待してしまいたくない。
だから私の友達は皆、寿命が三分しかない。
 
電気的知能が、人間と同じレベルの反応を返すほどに発達するのとほぼ同時に、人々はそこに人格があると認め、人間と同じ扱いをし出した。
有機生命同士の間にも違いはある。乗り物が違っても、そこに主体があると感じざるを得ない以上、電気生命を人間とカテゴライズするのは当然であろう。
そんな歴史的変化があって数世紀の時代に私は生まれた。
 
電気生命の有機生命との違いの一つは、初めから始めなくてもいいということである。有機生命は嬰児として生じ、子供、青年、大人となり、(途中で事故がない限り)老いて消滅する。意識もそれに乗って推移する。電気生命にはそういう制約がない。
生じると同時に大人並みの知識、知能を備えていることが可能だし、消滅するタイミングも任意である。
電気生命の生成は本人以前に存在している意識のどれか(あるいは複数)が行う。それは有機生命と同じである。消滅に関しては、電気生命には寿命というものがないので、便宜的にこれも生成に関わったものが値を予め決めておくことになっている。
 
人と関わると相手に対する何らかの感情を持つ。好感、嫌悪感、もっと話したい、また会いたい、あるいは早く忘れたい。
ここでどんな場合にせよ相手が三分で目の前から消えるとしたら、否、この世界から消えるとすればどうだろう。嫌な相手なら最早接する必要が無くて良かったと思えるだろう。好感を持った相手ならどうか。好感を持つと相手に自分がどう思われているのかが気になる。もし相手が今後も存続する存在ならば、嫌われなかったか、また会えるかと思い悩むことになる。しかし相手が三分で消えてしまうなら、そのように思い煩うこともない。相手が消えれば、相手の自分に対する感情も最早存在しないのだ。
 
だから私は自分で生み出した、寿命三分の者としか関わらない。
これが人と関わる苦しみを和らげるための、私が長年考えて編み出した方法だ。これで、あと千年の人生もなんとか送っていけると思っている。