【考察】音楽とかにおけるまだ気付いてない要素への指摘

昔、合唱団の練習中に「ソプラノ(私の属するパート)、音が微妙に低い」と指揮者に言われた。今の私はその違いに気付けるかも知れないが、当時の私には到底気付けず「合ってるじゃん!そんな指摘は間違っている!」と心の中で思い、虫の居所が悪かったのか無性にイライラしたりした。

最近もそれに似た話を聞いた。

そういうことは往々にして起きるのではないか。

例えば歌にざっくり3つの要素があるとする。音程、リズム(拍の土台にリズムのピースを嵌め込む)、発声。その中の例えば発声を頑張ってやって来た、発声を教えるのがうまい先生について頑張ってきていたとする。その人が必ずしも例えば音程という要素が歌にある、重要なものとしてある、自分でもより精度を高め得るものとしてあると思っているとは限らない。ひとつの要素を鍛えてもまだ他の要素も鍛える余地がある。それぞれを鍛えないと十分に上手い歌にはならない。

しかし新しい要素に気付くのは難しい。

音程という要素が存在することは知っていても、絶対音感のない自分がこれ以上音感を鍛えることは不可能だと思っている場合は多いだろう。そして自分の耳ではバッチリ決まったソの音と微妙に下がっているソの音は同じに聞こえる。というかばっちり決まったソなんて存在すると思わない。最初は当然そうだ。みんな頭の中に坂道があってそのだいたいの位置に音を置いていると思っている。しかし良い先生に出会うなどして自分の耳の精度を上げることが可能なのだと知り、訓練すると世界が変わる。音程って階段だったのかとなる。

しかし良いきっかけに出会えないといつまでも気付けない。指摘されても不当だと感じる。だって何を言っているかわからないだろうから。そういう仕組みなのだろうと思った。

 

蛇足だがピアノでも同じような感覚を感じたことがある。

コードを覚えたての頃はセブンスとか細かいことは無視して練習するだろう。そしてだんだん弾けるようになってきたら細かいところも足していく。セブンスやsus4やらを弾けるようになっても私は長いことオンコードや転回形すなわちベースを無視し続けていた。構成音さえ弾いていたら一番下の音がなんだって良いだろう、ベースという概念があるのは知っていたが何が重要なのか自分にはわからなかった。

少し余裕があるときにオンコードを書いてある通りに弾いてみたら「あれ?これの方がかっこいいな」となってベース音を意識するようになった。ある程度意識して弾けるようになってからは意識していなかったときの演奏やばすぎだったなと思える。(おまけにかつては同時に鳴らす音数もオープン・クローズも全く意識できておらずブロックで同時に右手もドミソ左手もドミソを弾くなどしていた。でも何事も下手でも始めてみることが大事だし、今でもくそ下手なのに弾くし。)

もし意識したことがなかったときに誰かに「ベース音大事だよね」とか言われても「はぁ、へぃ」とか受け流すだけだったかもしれない。