【考察】コミュニケーションの齟齬と自力で心を沈めること

コミュニケーションに齟齬があったとき、ひどく動揺する。今もその動揺の中にあり、手や体が震え心臓もバクバクいっており、キーボードが打ちにくい。(特に左手が震える。どうでもよい情報。)(このように文章を書くという理性を使う行動をしていても治まらない。)(病気かよと思われたかた、ご名答、当方はリアルにメンタルの病気である。)

そしてたった一言で何日もダメージを引きずったり、認識が違うと突きつけられると混乱して相手の言うがままにはいはい従ってしまったりする。

(すこし震えは治まってきた。)

 

今回の例二段階と、かつての大きな例を二つざっくり書く。

今回の例。一段階目。

仕事を頼もうとしていて、交渉が折り合わず、キャンセルを伝えたーーつもりでいたのにその直後、その仕事を実行するためにこちらが準備することの指示が始まった(思い出したら震えてきたw)。そうするといま断ったはずだという自分の認識との齟齬(さっきまで疑いもしなかった世界像がひっくり返される!)でこちらは大混乱するので考えることもできずただひとつひとつの指示にはいはいと従ってしまう。

二段階目。

時間がたってなんとか冷静になってあらためてキャンセルを伝え、別の方法で頼むことにする。また問題が持ち上がってくる。相手はA案にしてほしいと言う、こちらはB案でいきたいと言う。議論をしていると途中で返事が来なくなる。忙しいのかと思い待つ。しばらくして、A案の準備は進んでいますかと言われる(皮肉でもなくA案に決まったと相手は思っていたようだ)。大混乱。鬱々と塞ぎ混む。今ここ。

かつての例。一つ目。

日常生活で人はいろいろな行動をする。それらに問題がある可能性など考えない行動。寝る前に歯を磨く、小腹が空いたのでお菓子を買いにいく、休みの日に友達と遊ぶ、気になった本を読む、頼まれた仕事を片付ける、休憩時間にしゃべる。そんな行動のひとつとしてやったことが突然けっこうな勢いでとがめられる。いったいどうしてそんなことをと言われる。いったいどうしていけなかったのかとこっちは大混乱する。

二つ目。

行事に参加しないかと誘われる。しばらく考えますと言う。翌日、参加を決めたと伝える。すると行事に誘ってなどいないと言われる。あなたがやすやすと参加できる行事ではないと。相手はしかし問う。万が一自分の記憶違いもあるかもしれない、本当に誘ったのか、それとも誘っていないのかと。疑う余地もなかった認識を完全にひっくり返されて大混乱中の私は自分の中の何を信じ参照すべきかもわからず、ただ頭の回らないまま言う。私が間違っていましたごめんなさいと、勘違いでしたと。その後別の形での参加を提案される。参加したくなかったがもはや肯定マシンの私は参加すると言ってしまう。もう我慢して参加するしかない、混乱と憂鬱はかなり続いた。

例は以上。

もちろん相手も自分の認識が正しいと思ってやっているだろうし、はたから見ればただのどちらかの勘違い、記憶違い、あるいは私に常識が欠けていたり相手が特定の範囲で通じる常識をこちらがわかっていると思い込んでいた、などだろう。しかしここに書いた私の主観、私にとってどう見えているかを読んでもらえれば、ある程度は混乱してしかるべきだと思ってもらえるのではないだろうか。

 

相手のたった一言で、ただの認識の齟齬で一日から数週間が鬱々としてつぶれるのはばかばかしいことだ。どうにかしたい。

これにはまず自分が調子が悪くなっていると気付くことだ。(と、いま自分は調子が悪いと気付いたのち思った。)

調子が悪いと気付けたら、あのコミュニケーションの齟齬で調子が悪くなっているのだなと認識すること。

それができたら、そんなのばかばかしいから忘れて頭を真っ白にしてリセットする。この三段階目が特にかなり難しくて修行が必要だと思うが不可能ではないと信じる。意識のフォーカス先を変えるとか(こうして書くのもむき出しの感情からはフォーカスをずらすことになるだろう。)、文字通り頭を真っ白にしようとしてみるとか、そもそもそういうことがどうでもいいことだと思える根拠を普段から集めておいて思い出してみるとか、いろいろやってみたい。

自分の感情を乗りこなせるようになりたい。他人に踊らされるなんてばかばかしい。自分の心なのだ。