【思考】反出生主義について3

2の補足。

餅については、喉に詰まって死ぬかもしれないから、今この餅を食べないべきか。と、個人の視点でも書ける。溺れるかもしれないから海に行くのはやめるべきか。事故に遭うかもしれないから家を出るのはやめるべきか。

それと、不幸を生じさせる悪と幸福を生じさせる善という対にならって、既に生きている人に関する文も書き換えてみる。
人生のある時点にいる人には、生き続ければこれから幸福になる可能性がある。なので生き続けることは善である。
そしてその逆。
人生のある時点にいる人には、生き続ければこれから不幸になる可能性がある。なので生き続けることは悪である。

以上補足。


あらゆる幸福が消えてもいいからあらゆる不幸が消えてほしい、と思うときもある。ブッタとシッタカブッタにあるみたいに。その感覚なのだろうか。
そしてそう思うときというのは、たいてい不幸が優勢なときである。


車社会の、無から生じるバージョンの話を考えてみる。
無から生じる幸福、無から生じる不幸。
新しい機械が発明された。それを使えばとても便利になる。多くの人が今より幸せになる。しかし一定の割合で事故による不幸が予想される。
その機械は使われるべきだろうか。


生者と無の幸不幸の善悪表を書く。

生者に幸福を与える:善
生者に不幸を与える:悪
生者から幸福を奪う:悪
生者から不幸を奪う:善
生者に幸福を与えない:どちらでもない
生者に不幸を与えない:どちらでもない

無から幸福を生じさせる:善
無から不幸を生じさせる:悪
無から幸福を生じさせない(何もしない):どちらでもない
無から不幸を生じさせない(何もしない):どちらでもない
 ※無に関しては奪うことは出来ない

今ぱっと感覚で書いてこうなったが、両方の最後の、「生者に不幸を与えない」と「無から不幸を生じさせない」は善なのか?
両者の最後の二行はどれも何もしない、というやっていることは同じである。それをどう書いているかの違いである。なので書き方によって善悪が変わるのはおかしい。
それとも言い方の違いを生じさせるようなそれぞれの状況があると考えるべきなのだろうか。

ちょっとその状況の例を考えてみる。
生者に幸福を与えない…お婆さんの荷物を持ってあげない
生者に不幸を与えない…人にぶつからずに歩く
無から幸福を生じさせない…ボランティアの企画を取り止める
無から不幸を生じさせない…強盗の計画を取り止める

不幸回避(2番目と4番目)は誉められるべきで、幸福回避(1番目と3番目)は特に叱られることではない。(一方、不幸を作るのは叱られるべきで、幸福を作るのは誉められるべきだ。)誉められるべきとはすなわち善か。
となると、こう書き換えるべきか?

生者に幸福を与えない:どちらでもない
生者に不幸を与えない:善
無から幸福を生じさせない:どちらでもない
無から不幸を生じさせない:善

否、幸福回避は叱られることではないが、荷物持ってあげたら良かったのにとか、企画進めれたら良かったのに残念、とは言われるだろう。電車で席を譲ってあげなかったりしたら場合によっては責められることもあろう。しかしちょっと悪寄りになっただけだ。しかし、そもそも不幸回避の善度合いもこれと同じようなものではないか。つまりこうなるのでは。

不幸回避:少し善
幸福回避:少し悪
不幸創出:悪
幸福創出:善

そうすると幸不幸、快と苦痛は対称になる。
多分、出生の場合の不幸回避と幸福回避が同じ何もしないということであるのがポイントだ。

強盗の計画を取り止める話を例に取る。皆が強盗の計画を立てている世界があったとして、しかしある人はそれをあえてしないことにしたとする。そうすればそれは大きな善か。

否、出生の場合はこう考えるべきか。
反出生主義者が何もしなければ人々は子供を生み続けるだろう。つまり現在不幸が生じる自然な可能性があるということだ。それを止めるべきだ。つまり、人々が出生を起こさないことが善だ。
そしてこれの対の文も書いてみる。
反出生主義者が何もしなければ人々は子供を生み続けるだろう。つまり現在幸福が生じる自然な可能性があるということだ。それを止めてはいけない。

こう考えれば既に生きている人の話と同じになる。自然な可能性の話に乗るので。


死について。
幸福な者にとって死は救いであるかもしれない。今の幸福を失ったとき、生き続けなくてもいいという安心。
不幸な者にとっては死は他の不幸なことと同じように並ぶ不幸の一つであるかもしれない。
あまりにも不幸な者にとって死は救いであると同時に恐怖であるかもしれない。死は今の苦しみを消してくれるが、人は本能的に死を恐れるので。

よほど苦しくて何の希望もないと思っていても、死は恐い。なぜだろう。本当にそう思っているわけではないからだろうか。どこかでまだ希望があると思っているからだろうか。そうかもしれない。本当に、ただ救われたと思って死に向かったという話も聞いたことがある。それが本当に希望がないと信じている状態なのだろう。