【思考】反出生主義について

考えながら書いた順序のままなので話が蛇行していてすみません。

 

反出生主義という言葉を知った。

私は反出生主義者であろうか、と考える。まずもって私は他人の幸せを望んでいるだろうか。自分や身近な人の幸せは望んでいる。遠い人の幸せも望んでいるが身近な人よりは望み方が薄いだろう。可能的存在すなわち現在生まれていない人の幸せは望むだろうか?(ちなみにそれら全ての人の幸せを望むのは自分がそのほうが心地良く過ごせるからである。)
否、もし私が他人の幸せを全く望まないとしても反出生主義についての議論に乗ることは可能だ。対象にとってどうするのが幸せかについての話をすればよいからだ。それを他人に望んだり勧めたりするかは置いておくことができる。なので除外して考える。そのほうが楽しいので。

対象がどうすれば幸せか。人間が生まれないほうが世界(地球とか)にとって善い為に反出生主義を唱えるという考えもあるようだが、話が広がりすぎるのでここでは人間にとって出生が起きないほうがよいかということにしぼることにする。
しかも、生まれてくる当人にとってどうか、だな。

反出生主義に対してまず一つこういう反論が考えられる。
現在生きている人間にアンケートを取ってみる。生まれてきて良かったと思うか、生まれなければ良かったと思うか。そのアンケートの結果がもし、前者のほうが多ければ、これは反出生主義に対する反論になっているのではないか。すなわち、今後生まれてくる人間も生まれてきて良かったと思う者のほうが多いと予想される、と。

しかし反出生主義者はこう答えるであろう。
そのアンケートで、一人でも「生まれなければ良かった」と答える者がいたなら、すなわちそう思う者が生まれる可能性が少しでもあるなら、出生は起こされるべきでない、と。
幸福をいかに多く生じさせたところで、わざわざ不幸を生じさせた悪は消えない、と。
この点がまず一つ考えると面白そうな点である。
一つでも不幸を生じさせるならばそれに伴う幸福に関わらずそれは悪なのか。車社会と類似しているだろうか。車社会のおかげで便利な暮らしが実現できているが、車を禁止すれば交通事故で亡くなる人はいなくなる。
一人の人生の中にも幸福や不幸は両方あるだろうが、生まれて良かった人と生まれたくなかった人に自己申告で分けてみよう。一人の人生の中での幸不幸の比率がどれくらいならどちらと判断するかというレベルまでは、個人個人に任せればよいだろうから。少数でも生まれたくなかった人がいれば、生まれて良かった人の幸福に関わらず、出生は起こらないべきだろうか、否か。

出生は意識を生じさせることである。(ここでは簡略化の為にすべての人間が、哲学的ゾンビではなく中の人がいると考える。)何事も無より有のほうがよいという考えは的はずれである。なぜなら犯罪や病気や死や貧困なども無より有のほうがいいなどということはないからである。

上のように他の存在するものを並べてみると、意識というものは特殊な存在なのだと思う。意識というか、中の人というか。
私は最近個人的にこう感じることがある。ここに思考が生じていることはそれだけで良いことだ。どんなに辛い中ででも、それについての思考が生じている。私がそれを観測している。それはそれ自体よいことなのではないか。
しかし私が観測できるのは私が乗っているこの人間の思考だけだ。他の者の思考は直接は観測できない。他の者が話したり書いたりすれば間接的に観測でき、その考えを私が気に入れば私の幸福度は増すだろうが、当の他の者の幸福には関係ない。私以外の者にとっても思考が尊いであろうとは別に思わない。

しかし、可能的存在者の幸不幸を考えるとはどのようなことなのか。
可能的知的存在者には大きく二種類あるだろう。全くの可能的存在と、受精卵以降のこれと指示できるような、しかしまだ知的存在になっていないような可能的存在である。後者も生物学的にはこれと指せるが心理学や哲学的にはこの意識とかこの「私」とか指せないし特に哲学的には生まれていない私は全くの可能的存在と同じであるが、ここでは生物学的指示が可能になればそこに宿る意識も同定できると考える。
否、違うな。幸不幸を考えるのに中の人は要らないのではないか。(特に他人の場合はかな?)脳状態だけで語れる。

私が生じた確率、という話と繋がりがある気がする。可能的存在の幸不幸を論じることは。
今私が乗っている人間が生じたとき、あるいは私が乗れる候補となる人間たちが生じている中で、何らかの可能的存在としての現出するかもしれないプレ意識の候補者たちがいて、その中から選ばれて現出する。あるいはある濃度の無限のようなべったりとした候補の中から私が生じた。そういう何か前段階のようなものがあって確率とか、驚きとかを考えられるのでは。
可能的存在もそんなプレ意識。

でもそうだな、可能的存在の幸不幸を論じる、と言うが、反出生主義は不幸が「現実になる」ことに反対している。つまり、遺憾にも本人が後に否定的なジャッジをするような出生が起こった場合、その意識は出生が起こった時点で可能的なものではなくて普通の存在である。可能的存在の幸不幸を可能的存在のまま論じているのではなく、可能的存在というかむしろ存在しないものが存在するようになることによる不幸を論じている。上で書いた二種類のパターンの前者なら特に。
それは、犯罪が「起こる」ことは不幸である、というのと同じなだけなのか。犯罪が起こっていないとき、その犯罪は可能的存在で、それについて論じているとは特に考えないだろう。今後犯罪が起こることは不幸だと考えるとしても。その犯罪はまだこれと指示できるような犯罪でない。任意の犯罪である。でも犯罪が起こることは不幸であると言える。
そう考えるとき、どういう思考がなされているのだろう。起こる犯罪を想像している?これまで起きた犯罪を思い出している?犯罪一般について考えている、ということでいいか。
つまり、幸不幸を考えられている対象が現在はまだ可能的存在であることは別に重要ではない。

中の人は要らないし、可能的存在に関する特殊な議論だと考える必要もないのかな。
出生は、確実に一定数の不幸を生じさせる。(幸福をそれ以上に産み出しているのかもしれないが。)それがわかっているのに意図的に出生を起こすことは悪である。というのが話の核か。

犯罪などと違う点はそこではないか。
不幸が生じるのは全体の試行の内の一部(全部ではない)という点。それ以外の試行で幸福が生じることもあるという点。
そうなるとやはり似た形なのは車社会の話か。それと、wikiにあった「10人のほんとの罪人を逃がすより、一人の無実の人を罰してしまうことのほうがだめ」という話。
無実の人の話は感覚的に、そうだねというかんじがするが、車社会については、やめたほうがいいと思えない。。自分が気を付けることで回避できる率が上がるから?それは無実の人の話でも少しはそうできそうだが、事故よりは回避対策が効きにくいかな。
出生の場合は不幸回避の対策が取れるか。親も本人も取れるだろう。むしろわざと不幸にする/なる人以外は皆取っているだろう。
車社会をやめたほうがいいと思えないのは、便利さにかまけて、事故に遭う人の苦痛に目をつぶっているからだろうか。すごく身近な人はまだ致命的事故に遭っていないからか。
出生をすぐに否定できないのは、既に居る自分や身近な人が現に幸福であることや、下の世代の人が増える楽しさや経済的恩恵や、これから生じても運良く幸福に生きられる人に目を向けて、これから生まれて不幸になる人の存在に目をつぶっているからか。

副産物として一定数の不幸が生じてしまうような活動はやめるべきか。という問題になるだろうか。
無実の人の話は、既に罰するべき本当の罪人たちが存在してしまっているのだから、完全な類型ではない。不幸な人が生じるから出生をやめよう、事故が生じるから車を全廃しよう。それらと同じになるのは、無実の人の話の場合、冤罪が生じるから犯罪者を捕まえるのをやめよう、となるだろう。車をなくすという話より、「一人の無実の人を罰してしまうほうがだめ」にうなずけたのは、だから冤罪をなくす努力をしよう、という方向に思考が向かっていたからではないか。犯罪者を罰するのをやめよう、ではなくて。
そして、さっきの話に戻るわけである。事故や不幸や免罪に目をつぶっているから、車や出生や罰をなくそうと思えないのだろうか、と。

無実の人の話はもちろん、一人の無実の人と十人の罪人を捕まえるか全員逃すかという具体的な場面を設定した話ではなく、網の粗さの設定の問題だろう。証拠のチェックなどをどれぐらい厳しくするか。本当にこの人が犯人かどれくらいまでしっかり確認するか。十人の罪人を捕まえたとき一人の無実の人も網にかかってしまうならもっと基準を厳しくしろということだろう。もっと話を進めればどんなにしっかり確認しても免罪はゼロにはならないだろうから、罪人を捕まえて刑罰を科すのをやめてしまえということになる。

上記の話はそんなふうに具体的な数字の話ではなく割合の話なのだが、ここで数字だけ真似して出生に関してこんな話を作ってみた。

一人の予知能力者がいる。今夫に鰻丼を出せば自分は身籠る。子供は11つ子であるという。彼女は言う。十人の子は幸せに生き、生まれてきて良かったと思って死ぬ。一人の子は不幸になり、生まれてこなければ良かったと思い続けて死ぬ。また、今夫にアボカドサラダを出せば二人は子をなさない。
あなたは彼女にどちらに進むべきだと言うか?

この想定では親の幸不幸も思い浮かんでしまうので、こうしよう。時は未来。全ての人は試験管で生まれて公的機関でロボットに育てられる。子育ては誰にもできない。資源は豊富にあり、今後下の世代が生まれても生まれなくても今いる世代は死ぬまで生活に困らない。出生管理大臣のあなたは任期中に十万人の幸福な人と一万人の不幸な人を生み出すか、人を一人も生み出さないか選ぶことができる。どちらを選ぶか。
これ、今いる人のエゴを廃したなかなか良い設定じゃない?


車社会と出生の話の対応も考えたので書いておく。
個人の行動:車に乗る-子供を生む
必ず起こってしまうこと:交通事故-不幸な人が生じる
良い点:便利-幸福も生じる
社会の行動:車を規制するか-出産を規制するか