【思考】反出生主義について2

これから生まれる人と今生きている人の間で、男女比や血液型の比率などが急に変わることはないだろうと思われるので、そういう意味でこれから生まれてくる人のことを予想できる。
そして、それよりは複雑な要因が絡んでくるが、これから生まれる人の幸不幸も今生きている人のものから予想することは、的外れではないだろう。生まれた時代によって幸不幸が変わるというなら、過去の様々な時代の人々の幸不幸の割合を平均して、これから生まれる人のそれについて予想してみれば良い。
例えばこれから生まれる人の8割の人が幸福で2割の人が不幸な人生(誕生と死を含めて)を送るという予想が立ったとする。それでも出生は悪だろうか。無から不幸が生じることが悪であるならば悪だろう。出生すなわち死を産み出すことは広義の殺人であることも認める。それでも、死んでもいいから生まれたいという人がいるなら、その殺人は悪ではないのではないか。
 
反出生主義者にとって、既に生きている人の人生全体の幸不幸は当人の感覚で決めてもらってよいということは、認めてもらえるのだろうか?
認めてもらえると仮定して話を進めると、無から生じるものとしては不幸だけが注目され、既に生きている人の幸不幸は本人の総合的判断で決まるとするなら、そのふたつの違いのうち何がそうさせるのだろう。
 
車社会の例と同じようなのをもうひとつ思い付いた。
餅を喉に詰まらせて亡くなる人が一定数いるなら、正月に餅を食う習慣はやめるべきだろうか。
 
生き続けることが不道徳であるという論の作り方をひとつ挙げる。今生きている人についても生まれる前の人と同じように幸不幸を考える反出生主義者の論である。
例えば自分自身を不幸にすることも不道徳であるとしよう。人はいつか死ぬ。よって一人の人生において一度起こる死そのものによる不幸の量は変わらない。一人の人が人生のある時点にいるとする。その人にはこれから不幸が起こる可能性がある。(幸福になる可能性もあるがここでそれは考えない。)いつか起きる死を今に持ってくればその不幸の可能性は消える。なので今死ぬべきである。
 
そしてそれの逆のことを書いてみる。
自分自身の幸福を奪うのも不道徳であるとする。人はいつか死ぬから死による不幸の量は一定である。人生のある時点にいる人にはこれから幸福になる可能性がある。(不幸の可能性は無視する。)しかしもし今死んだらその幸福の可能性は消える。なので今死ぬのは不道徳だ。
 
これについて、不幸の生起を重視する者は、前者が後者より正しい理由を論じねばならない。
 
出生に関しても同じように並べてみよう。
一人の人を生じさせるということは、その人の死と少なくとも人生の一部にある不幸を生じさせることである。それは悪である。
 
次にその逆を書く。
一人の人を生じさせないということは、その人の幸福を奪う…
だめだ。その人などいないのだ。人を生じさせないということはただ何もしないということだ。
上の既に生きている人に関する一対の文とは違うものになるが、ではこう言ってみる。
一人の人を生じさせるということは、少なくとも人生の一部にある幸福を生じさせるということである。それは善である。
 
奪う、という文脈で考えると反出生主義者は有利になるのか。(上のちょっと変えた対の文は、奪うという文脈を離れたから作れた。)そこで、自然な未来の違いが出てくるのだ。生じていない者の未来は描かれない。描きようがない。既に生じている者の未来は自然な可能性として描かれる。
しかし、奪うという視点から見続けなければならない道理はない。不幸を生じさせる悪と幸福を生じさせる善。この二つのうち前者に注目すべき理由を反出生主義者に論じてほしいと求めても良いはずだ。