【小説】あるゾンビウィルスの話

2020年、地球。

あるゾンビウィルスが密かに蔓延していた。

僕は父から感染した。噛まれたのではない。このゾンビウィルスが腐らせるのは身体全体ではなく主に心である。歯などの身体表面は、生きた人間とさほど変わらない。

近しく過ごした者の、心から心に感染するのである。

 

社会の癌。

社会はこのウィルスの感染者たる僕達をそう思っているだろうと思われた。社会の細胞である我々。内部あるいは外部からの攻撃を受けた細胞は発症しやすくなり、発症すれば周りの細胞を攻撃し、ゾンビ化を広げていく。

社会は、僕達感染者を殺したがっているだろう。

 

先述の通り、ゾンビ化は見た目では分かりづらい。だから人間にまぎれて社会生活を送るゾンビも多かった。一定以上心を近付けなければ感染することもない。

僕には働けるほど人間のふりをする能力はもう残っていなかったが、まだ見た目は人間とほぼ同じだ。ときどき友達ができた。しかし何年か付き合いが続いてふと僕の心ーーゾンビ化して腐敗しグズグズに爛れ醜くおぞましい死臭を放つ心をちらりと見た者は、遁走した。世にも恐ろしい怪物に突然出くわしたかのように、死に物狂いで、いかにも一生懸命に、なりふり構わず。

苦しみに、溶けた触手をめちゃくちゃに振り回してもがき、暴れ続けるゾンビの心。彼らにとってそれは自分への攻撃だ。

その後二度と戻って来ない者も多かった。彼らが発症していないことを祈る。いい人達だった。

中にはしばらくしておずおずと再び近づいてくる人達もいた。あのときの君はおかしかったが、いつもそうというわけではあるまい。君は君だ、と。しかし彼らも「あのときの君」に対する心の底から沸き上がってくる嫌悪自体は否定しなかった。否、その話題には極力触れようとしなかった。

彼らは当然、ゾンビである僕を受け入れたわけではなく、そこに目をつぶったのだ。

「一度くらいは許そう。もうあんなことにはならないでいてくれよ」と。口に出しはしなかったが。

違うのだ。彼が見たおぞましい心。それこそが僕であり、僕は紛れもなくゾンビであるのだ。いつなんどきも。

優しい彼らはまた普通を装って僕のそばにきてくれる。しかしその笑顔は以前とは別物だったし、何より僕自身が彼らに以前と同じ気持ちで接することができなくなっていた。

同じゾンビと友人になったこともあった。僕達はお互い傷付けあって結局距離を置いた。

 

僕は夢見る。いつか、僕を飼ってくれる鈍感で優しくて奇人じみた人間が現れないだろうかと。その人は僕の心があらわになったときも、水のように彼の認識世界をたゆたわせて受け流す。彼特有のマイペースと自由さで彼のフォーカスは僕(こんなにも目立っているのに!)には向かない。

ゾンビの心に近づいても感染しない、あまりにしなやかな心の持ち主。

彼は僕がゾンビであることをきちんと”知って”いながら、僕のそばにいてくれるのだ。