【小説】憶えている

調査に入ったその星の住民は思い出というものを持たなかった。目の前で続いているタスクのことはそれが終わるまで覚えている。しかし終わると完全に忘れてしまう。仕事でも生活でも対人関係でも何に関してもそうだった。我々には奇妙に思えるが、彼らにはそれが当たり前で、我々と比べて何一つ困ったり不便を感じたりすることなく生きていた。形式が違うというだけなのだ。
私は地球時間で月に一度ほど、この星に数日間滞在し、彼らの生活を調査した。
調査に協力してくれた一人の男は、とても気さくで優しかった。自分の世界があって(おそらく彼は自分の趣味を幾度となく忘れ幾度となく好きになりなおしている)、我々にも興味を持ち、調査員の私を長年の友人のようにとても丁寧に扱ってくれた。仕事のこと以外でもたくさん話をした。とても楽しい時間だった。
その月の調査を終えて私が地球に戻るとき、彼は記念にと言って私に首飾りをくれた。あなたとの時間はとても楽しかった、出会えて良かったと彼は言った。ああ、私も同じ気持ちだ。ずっとここにいたいくらいだ。彼のことが愛しくて胸が苦しかった。
来月も彼を継続して調査する。仕事のために交換していた連絡先に、私はメッセージを送った。早くあなたに会いたい、と。返信はなかった。そうだ。彼らはそういう生物だった。私からのメッセージはおそらくたくさんの広告なんかに紛れて、意識されてもいないのだろう。今私は彼にとって知らない人なのだから。来月私が彼と面と向かえば、彼はまたあの優しい笑顔を私に向けてくれるはずだ。
ひと月がたち、私ははやる胸を押さえて彼に会った。彼は言った。
「調査員のかたですか。よろしくお願いいたします。あ、その首飾り素敵ですね。地球のものですか?」
わかっていた。彼が私を覚えていないことは。それでも彼の笑顔を見れば満たされると思っていた。でも。話すのが楽しくていつまでも話したこと。自分のことや彼のこと。心の深くにある考えや、好きなもの。目を見つめて笑いあったこと。一緒に過ごしたこと。あんなに楽しくて親密に思えたこと。首飾りを贈ってくれたこと。出会えて良かったと言ってくれたこと。彼の頭のどこにも、これらは微塵も書き込まれていない。彼にとっては、何もなかった。だからつまり、何もなかったのだ。私は打ちのめされた。しかしもう私は彼を好きになっていた。すでに引き返せなかった。
そしてまた楽しい嘘の時間が私の記憶にだけ書き込まれた。彼は相変わらず優しかった。帰ってから、またメッセージを送った。彼にとっては何者でもない誰かからのメッセージを、幾つも幾つも送った。
「調査員のかたですか。よろしくお願いします」
次の月も私はそう言う彼に笑顔を返した。涙はもう枯れていたので、なんとか笑うことができた。彼の頭の中にも世界のどこにも、私と彼が過ごした時間たちのことは存在しない。何かが書き込まれていた或いは書き込まれるべき場所すらない。
私は憶えている。この記憶に対応する実体は、事実は存在するのだろうか。私のほうが「間違えている」のだろうか。わからない。私は憶えている。それが良いことか悪いことかはわからない。けれど。憶えている。