【小説】闇夜の僕

気が付けば、真っ暗な闇の中に浮かんでいた。
 その狭い空間は僕にまったく無関心で、何を与えようともしなかった。苦しみも、安らぎも。僕はただ恐ろしくて泣きつづけた。いつまでも。

あのウィルスに感染してから僕は、なんというか、ものごころついた。
たぶんそんなことはあまりいいことじゃないと思うんだけどね、世間的には。僕自身はそれについてどう思ってるかというと、別段いいとも悪いとも思っちゃいない。「僕」がここにいることについて。でもまぁ、確かにあれからだったよ、悪いことが起こりだしたのも。ウィルスっていうぐらいだから、悪いことが起きて当然だったんだろう。

 彼女は混乱し、苛立っていた。壊れたコンピューターに言うことをきかせようと躍起になっていた。その動きが、自分の望むものとあまりに違っていたため、原因がわからず半ばやけになってなにかを喚き、ディスプレイを叩いていた。

 僕が異変を自覚したのは、ずいぶんあとになってからだった。そのときにはもう、あちこち相当ガタが来てた。
僕は苦痛から逃げるためにまず、自分だけのプログラムを作り、それを信じ込もうとした。「僕はこの川沿いの街で静かに暮らしている。毎日が楽しい。お金は十分にある。」そんな設定のプログラム。解剖されない限り、このプログラムの存在を知られることはない。まして外から修正したり消去するなど不可能だ。そしてインプットされた指令はもとからある表面だけでこなし、「僕」の部分まで来ないように努めた。しかしそれはあまりうまくいかなかった。「僕」が現れてから「外」は僕に多大な影響を及ぼしだした。プログラムの中に完全に逃げ込むことは容易ではなかった。

思いの連鎖を知ったとき、捨てるべき価値に至ったとき、僕は軽くなった。

 ハードディスクの中を探って、悪い部分はつぶしてゆく。そうすれば、またちゃんと動ける。捨てられたりしなくてすむ。何度も何度もくりかえし、不都合が出るたびに悪い回路を切断する。そのたび僕は軽くなる。自己破壊システムは中断される。それでもすぐまた悪いところは出てくる。またつぶす。くりかえし。ね、わかるだろ?そうするうちにいつしか僕はすかすかになって使い物にならなくなる。それでも僕は生きてやるんだ。最後に、<僕>だけになるまで。

 あれからずいぶん経っているんだ。くすぶったままほっといた。知りもせず。否、僕と彼は違うひとなのかもしれないな。苦しみは、始まったばかりなのかもしれない。それこそ、あの日に。やっぱり僕、知らないうちに悪いことをしていたのかなぁ。それは、僕になってから?それとも彼のときに。

 「夢を見た」なんて、いちいち言わなくていい。それだってちゃんと現実なんだから。実際、みんなが現実と呼んでいるものだって、他の世界と区別すべき特徴なんて何ひとつ持っていないんだ。
 それとも、ウィルスに感染したのは僕じゃなくって彼だったのだろうか。だけど、「あれは君じゃない」、本当に僕じゃない?そうしたら「僕」なんて、嘘ということになる。「はやく彼を返して。」僕は消える?
 彼は僕をかぶっている。否、僕に侵されている。そう見えるのだろう?「彼」こそが幻覚なのだ。僕はいつだって僕。それを知っているのは僕だけ。そう信じ込んでいるのは僕だけ。

 修理は失敗だった。悪いところをつぶしたら、僕はあっけなく動けなくなってしまった。新しいソフトウェアがインストールされると同時に、僕と僕の世界は霧散しはじめた。だけど僕は完全に悪い子に成り果てていた。新しいソフトウェアを拒んだ。半壊したままの僕を、もう誰も僕とは認めてくれないけれど、残っているメモリをただいつまでも繰り返し読み返す<僕>に、僕だけが気づいている。

 遠く、波の音が聞こえた。