【小説】金星まんじゅう屋

君を好きではなくなった。君には何も悪いところはない。僕がただ心変わりしたのだ。本当にすまない。
そう言って彼は出ていった。幸い私たちには子供はいなかった。女がいる様子でもなかった。

彼は金星まんじゅう屋の二代目だった。地球で金星ブームが起きたときに金星の形を象った金星まんじゅうが流行り、多くの金星まんじゅう屋ができた。今ではブームは大分落ち着き、当時よりはまんじゅう屋の数も減ったが、手堅いファンもいて地味にだが確実に根付いたようだ。
私はもともと特に金星まんじゅうには興味はなかった。しかし彼と一緒になり金星まんじゅう作りを手伝うにつれて、自分にとってなくてはならないもののように思えた。新しい食文化として愛される金星まんじゅう。そしてそれを情熱をこめて作り続ける彼。私たち。それはなんて素晴らしいのだろう。そう思った。金星まんじゅうは私自身の分かちがたい一部分になっていた。まるではじめから体に組み込まれていたように。

長くまんじゅう作りを手伝った私には、はっきり言ってもう独立して店を持てるくらいの腕はある。しかし、私はそうしなかった。彼が去った後、私は金星まんじゅうに対する興味をまるで見いだせない自分に気付いた。私は彼が好きだっただけなのだ。あるいは彼に執着していただけだった。
長めのひとしきり悲しみにくれ切った後、私は結婚する前にしていたピアノの先生の職に戻った。まず音楽の楽しさを伝えるのが私の仕事だと思っている。もし上達を望むなら、それはその後についてくる。近所の子供たちが楽しそうにピアノを弾く姿を見るのが何よりの楽しみで、生き甲斐だ。この子達のために私は生きていると思える。

金星まんじゅうを見かけると薄く彼のことを思い出す。ぱさぱさと尖った思い出し方だ。遠くて小さくて存在感は無いのに少し悲しくて腹立たしくて、鬱陶しい。そういえば金星まんじゅうは意外と喉が乾くのだった。潔癖な街の中で耳の近くを小さい小さい虫が過る。
彼が好きだった。側にいてくれるところが、側にいるよと言ってくれるところが好きだった。本当に側にいてくれるつもりだったのだろう、あの頃から彼も私も何も変わらなければ。話が合うねと言ってくれて嬉しかった。君も金星まんじゅう食べたことあるの、作るの上手いじゃないか。人に誉められた経験などなかったのでとても嬉しかった。彼をはなしたくないと思った。
そういう重要な美点を多く持ちながらもっとも大切な点が彼には欠けていた。私を好きでい続けてくれるという点である。これにより彼によってもたらされる全体は私の物ではなくなる。一瞬手にしたと思った嬉しいことたちは、彼が去ったという悲しみと共に消え去った。
いつも疲れていて、軽薄で、八方美人で不幸自慢ばかりで、世俗的な趣味のつまらない人だった。でも好きだった。私はかつての自分に同情する。

その後、彼の金星まんじゅう屋は全国に店舗を増やし業界最大手に急成長、彼はちょっとした有名人になっている。
私はピアノの先生を続けている。