【思考】恋のやめ方1/恋とは手に入らないものへの感情のことである

恋とは手に入らないものを手に入れたいと思うときの感情のことである。
そう思い付いた時、随分頭がすっきりした。
そう考えるのがわかりやすく、日常の言葉の用法ともそこそこ合致する場面があると思う。
手に入らない部分に目を向け続けている状態。
正確には次のようなことである。

ここで恋と呼ぶための条件として、以下を考える。
・好ましく思う
・手に入らない又は失うかもしれない
・それが辛い又は悲しい又は悔しい、そしてしばしばその感情が沸く
上記三つ全てを満たすこと。
(ただ、永遠に手元にあることが確実なものなどないので、二つ目の条件は全てのものが満たし、無いのと同じとも言える。)

そして恋に対して友情と呼ぶものを考えたい。
友情と呼ぶための条件として以下を考える。
・好ましく思う
・手に入らない又は失えば、仕方がないと思う
上記二つを両方満たすこと。

恋の例として以下を挙げる。
叶わないと思われる片想い(叶わないことが辛い)、叶う可能性もあると思われる片想い(叶わない可能性があることが辛い)、少しでも壊れるのが不安であるような両想い(どんなに想われていても離れれば辛いと思えば恋と呼ぶ)、嫌われたら辛い友達関係、入手困難とわかっても諦めきれない物(しばしば手に入れられない不快さが生じる)。家族や友達に対する不均衡な好意。

友情の例として以下を挙げる。
破局したら次へ行くことが考えられる片想い及び両想い、嫌われたら諦められる友達関係、入手困難なら手に入るようになるまで待てる物。(離れることが残念だったり、離れても相手の幸せを願う場合もあるが、側にいられないことや自分が相手を幸せにできないことの苦しさがしばしば浮かぶということはない。)

恋とは手に入らなさのための想いであり、相手の中のあなたの物ではない部分に対する欲求である。(例えば相手の未来。)
どうしようもないことに目を向け続けるために生じる思いである。そこに目を向け続けるのは、好みでないドラマを最後まで見続けてわざわざ不快になるようなものである。
たとえ相手があなたをどんなに好きでも、原理的にあなたに与えることができない部分がある。それを欲する状態は異常であり、本人にも相手にも害をもたらす。
恋の状態にあることが原因で仲良くなれない人間関係も多くあるはずだ。恋をやめて友情を抱けば、つまり手に入らないものを欲するのをやめれば、仲良くなれる場合もあるだろう。そのときあなたが手に入れるのは、恋をしていたときに欲していたものではない。その時に欲していたものが仮に手に入った時の喜びと比べるなら、恋をやめてから仲良くなれる喜びは然程でもないだろう。しかしそもそもここで言う恋が叶うことはない。だからその想定された大きな喜びは不可能だ。

手元にある/ない、恋/友情 で場面を分けて考えたい。
一、手元にない恋。
いわゆる片想いがこれの代表的なものだろう。上の例の初めの二つに当たるだろう。疎ましく思われていることが悔しい、悲しいなど。例えば異性として魅力を感じ仲良くなれればいいと思うが、別にそうなれないことがしばしば辛く思われる、というわけではないということもあるだろう。(その状態は「ただの憧れ」などと言われるかもしれない。)こちらは下の二の項目に入る。
二、手元にない友情。
仲良くなりたいと思っている状態。もし相手に嫌われたなら(通常その想定をあえて思い付くということが少ないだろうが。)残念に思うだろうが、そのことが時間がたってもしばしば辛く思われるということはない。
三、手元にある恋。
恋愛関係にあるが、もっと会いたいと思っている。友達だがもっと連絡を取り合いたいと思っている。家族だがもっと話してほしいと思っている。
四、手元にある友情。
手に入る部分だけを愛しむ恋愛、友達、家族関係。平穏に好意を抱いていて(あるいは抱きあっていて)、不安はない。とても大きな好意がある場合もあるが、相手がいなくなることを恐れてはいない。

恋をやめよ。そしてもし好意を抱くなら友情をいだけ。
それが幸せになる道である。

なぜ手元に無いものに目が向いてしまうのか。
どういう場合があるか考える。
・一度手に入って失った
・手に入りそうに見えた
・関係上、もっと仲良くすべきであるように思える
等々

恋をやめれば、欲しいものは全てあなたの手の中にある。好きな人はあなたに会ってくれる日もあるし、連絡をくれるときもある。恋人は明日離れていくかもしれないが、今日側にいてくれる。片想いの人は同じ学校の中にいるし、遠距離恋愛中の彼は同じ国の中にいる。反抗期の子供は一言は返事をしてくれる。
なんと幸運なのだろう。