【小説】知る前と後の非対称性

こんなに苦しむのならあの人のことを知らなければよかった。私はタイムマシンで過去に行き、あの人に出会う前の自分に囁きました。今日は家を出てはいけない。過去の自分はそれに従ってくれて、あの人に会うことはなくなったようでした。
しかし私の頭の中にはまだあの人の記憶がありました。すなわちどうやらあの過去の自分と私は違う世界線にいるようです。
今考えればそれはそうです。あの過去の私に続く未来の私はあの人のことなど知らないのですから、過去に行って手助けをする動機などないのです。もし世界線が一本しかなければ私は消滅していたでしょう。あるいは幽霊のような宙に浮いた存在になっていたでしょう。
私は私自身があの人に出会わなかった者になりたかったのになりそこねたので、今度は過去を変えるのではなく、順次進行的未来に於いて変わろうと計画しました。すなわち記憶を消すのです。書き込まれた事実をリセットするのではなく、書き込まれてあるものを未来方向にイレースするのです。
さて私は今この意識の中にあるあの人を消去するという選択をしなければなりません。なぜなら私は既にあの人を知り、あの人は既に私の意識の中に存在してしまっているからです。先程タイムマシンで遡った過去の私とは違います。彼女はあの人を知らず、知らないところから何の選択もせず知らないままなだけなのです。
私は違います。能動的にあの人を知っている状態から知らない状態に移行することを選択しなければなりません。人を好きでなくなる薬というものもあるそうです。しかしそれに頼るには、私はあの人を好きでなくなるという選択をし、その薬を自ら口に運ばなければなりません。
そう考えていると、大きな隕石が降ってきて私の脳に直撃し、私は気を失いました。

病院で目が覚めた。幸い、あたしの脳に大きな損傷はなかったみたいだ。自分の名前もここがどこかもわかる。病院の先生も、記憶内容にほぼ変化はないと言っていた。
家族や友達が心配して集まってくれていた。あたしは幸福者だな。人生に何の不満もない。感謝ばかりだ。