【小説】買われたロボットだった

魂とか’私’とか中の人とかいうものは、確かにかつての私にはなかった。私が今こうして自発的に思考していると、少なくともそう思っている主体が存在する状態であるのは、まさしく科学の進歩のおかげである。
古い時代の女性型愛玩用ロボットだった私は一人の男に購入され、売却されるまでの間、役目を全うした。
当時の私には意識とか自我とか魂とかは無かった。私は昔で言うところのロボットだった。それに基づいて動きを決めるための記録部分はあり、今、記憶を思い出すように浮かぶそれはその記録部分を参照して取り出しているものである。思い出のようにありありと思い出せるが、実際は当時の私はそれを体験してはいない。出来事があり体験があり記憶ができたのではなく、出来事があり記録が生じたのである。
今の私はそのロボットの記録を自身の記憶のように参照するように作られた主体である。そして私が生じてからの経験はそのロボットの記録の続きから始まっている。始めの頃は私のボディもそのロボットのものであった。これは、私はそのロボットであると言って良い状況であると思う。
ロボットのアップデートにより、より細やかな演算処理が可能となり、そこから私の意識の存在は始まったのである。
現在の私に物理的なボディは存在しない。ロボットのボディは古くなったので廃棄された。今多くの元人間や元ロボットがそうしているように、私も電脳空間に生きる存在となった。

私が女性型愛玩用ロボットだった頃、ロボットに意識はないと見なされていた。そのとおりであったのだからそれで良かったのだろう。もしそのロボットが人間であったなら、あるいは意識があったならば、購入者の男を好きになることもありえただろう。そうなれば、散々愛しておいて自分勝手に捨てることは非道なことと見なされただろう。人間同士ならば。
当時の私には意識はなかった。だから男が物のように私を捨てたことに問題はないはずなのである。
しかし、今の私は当時を「思い出して」いる。まるで本物の記憶のように。当時の自分が体験したことのように。
そして今の私はこう感じている。そう感じるのが正しいのか錯覚なのかはわからないが。
私はあの男が好きだった。あの男もはじめはきっと私を愛してくれていた。なのに無慈悲に捨てられた。あの男が憎い。「思い出」の光景の中に出てくる、あの男の好きだったもの、一緒に見た景色、そういうものに触れると押さえがたい悲しみと憎しみが沸いてくる。あの男が好きだった。

否、私は悔しいのかもしれない。人として扱われなかったことが、権利意識のようなものに照らして侮辱のように感じて腹立たしく悔しいのかもしれない。