【小説】見回り

対象者の一人、千代さんの独居の部屋のチャイムを私は左手で押した。右手にはリコーダーを持っている。

累進的超高齢社会と呼ばれる現在、見回りの職に付くものは多い。お茶の配達、肩揉み、音楽の出張演奏、宗教や保険の勧誘など、カモフラージュの形は様々あるが、大体が大家からの依頼で動いている。様々な看板を出した請負会社に高齢者の部屋の定期的な確認が依頼され、私たちスタッフが担当の部屋を見て回る。部屋に住んでいる人が倒れていないかの確認のために。部屋を借りている人が死亡後誰にも気づかれず放置された場合、物件の価値は著しく下がる。生まれる子供が極端に少なくなり、家を新しく買ったり借りたりする人間はもうほとんどおらず現在物件の借り手や買い手のほとんどが自動人形であるが、その需要は案外多い。
私たちは大概一人一人の高齢者を毎日訪ねる。長くとも一日おきだ。体調の著しい変化が認められる場合、日に何度も見に行ったりそのまま側についていたりすることもある。
病院で亡くなる人は少ない。年金制度も国民健康保険制度も破綻し、子供がいる者も少ない今、医療を受けられる高齢者は少ない。私たちに医療の知識はない。見回りの対象者たちは弱っていきやがて亡くなる。私たちはただそれを見守る。
彼らには様々な人がいるが、自分の死を怖がっていないように見える者も多い。初めてこの仕事についた頃、対象者と話していて驚いた。自分は恵まれた人生を過ごした。親や仕事仲間や友人に恵まれて幸せだった。もういつお迎えが来てもよいのだ。そう言っていた。年をとればそんな境地に到れるものなのか。まだ若かった私は自分がいつか死ぬなどということを思い浮かべることは通常なかった。もしかしたら実感を伴って考えたことは一度もなかったかもしれない。彼らは彼らの延長戦が終わるのを静かに待っているように見えた。日々目の前にあるものを穏やかに愛しむ。しかしそこに決して執着はなく、彼らは従順に待っているのである。死を。
私自身、自殺に失敗してからはずっと、オーバータイムだと思って生きている。しかし彼らと同じ静かさで死を待っていると言えるだろうか。彼らは私以上に既に苦しんだのかもしれない。それを求めて近くに寄れば寄るほど恐ろしい姿を見せる死に。あるいは私よりずっとたくさんの感情の推移のパターンを知っているのかもしれない。その人その人の。この苦しみも悔しさも、こんな風に終結すると、知っている。これまでたくさん経験してきたが故に。

部屋を開けると千代さんは死にかけていた。彼女は私に言った。私も昔は今みたいに思えるようになることが信じられなかったの。でも今は死ぬのは怖くないのよ。怖いという気持ちがその後どうなるものなのかも知っているもの。
そうして彼女は亡くなった。前髪には私があげた花のピン止めが光っていた。