【思考】退屈

退屈や否退屈を取り巻く状況を分類する。

すべきこと(仕事や、約束してしまった遊びの計画等)がある
-すべきことが熱中できる
 -すべきことが楽しい
 -楽しくないが集中を要するので退屈している余裕はない
-すべきことが単調で楽しくなくて退屈(→それが終われば熱中できることに従事できる。今後仕事や遊び方を変えることも検討可能。待ち時間が退屈であるなら次は本やゲーム機を持ってくれば良い。)

すべきことがない
-やりたいこと、充分楽しめることがある(進んでやりたい、楽しくて熱中できることがある)
-やりたいこと、充分楽しめることがない
 -少しの程度なら楽しめることがある(→本を読みつつお菓子を食べる、話しつつ飲むなどして、その場をしのぐことはできる。ただし一つのことで満たされたいという不満は感じる。暇潰し)…●
 -何も楽しくない(すべてのことを試すことはできないので、楽しいことを見つけられる可能性はあるが、闇雲に探すしかない。とりあえず思い付くことを皆試しても楽しくない状態)…☆
-楽しめることがあるが、それをできない事情がある(他のことは楽しめないがこれをすれば楽しめるとわかっていることがあるのだが、他者との関係、健康や金銭的理由などでそれができない)…☆

☆をつけた二つが特に厄介である。●の暇潰し状態も、一つの楽しめることに出会えずに長くその状態が続くなら心身の健康を害するのでそうなれば厄介だ。
なお、何が楽しいかはその時々によって変わるので一つ楽しめることを見つければ明日もそれが楽しめて安泰だということはない。逆に、今日楽しくないことも明日は楽しめるということもあり得る。楽しめることはその都度白紙の状態から探さなければならない。自分が楽しめることの傾向はある程度保たれる場合が多いだろうから、今まで楽しめたことが参考にはなるだろうが。

一つのことを何年も毎日楽しめる人は羨ましがられるだろうが、偉いわけではない。その人は幸運にもそういう状態にいるだけである。また、毎日楽しめることは違うが、何かしらその日その日の楽しいことに出会える人についても同じである。

☆をつけた二つ、何も楽しくない状態と楽しいことができない状態。それらは二つとも、できることの内何をしても楽しくないという状態である。
前者はもしまだ気力があるならまだ試していないことを試し続けるということも可能だ。(希望を持って試し続けるにはなかなかの精神力がいるだろうが。)試す気力がないなら、薬を飲んでしばらく眠り、何かを楽しめるようになるのを、あるいは楽しめることを探したり思い付いたりする気力が戻るのを待つぐらいか。
後者の場合は、意識はもしできれば楽しめるというその事柄にフォーカスされ続けるだろう。そうしてしまうのを、努めて回避しない限りは。得られないものを求め続けるのは不毛な「恋」の状態であるから(※一連の記事『恋のやめ方』参照)その人は、自分は前者の状態にいるのだと思った方がいい。そう思えないならこの状態は前者の状態よりも厄介だ。その楽しめるはずの事柄を強く求めるあまり他のことが楽しめないということも充分あり得る。
楽しめることは出来ることの中から探すしかない。できないことは、冷静に、試すべき項目から外すことだ。

何も楽しくない(およびそれに吸収される☆の二つ目)状態を解消するには、楽しめることを探し続けること、その為の気力を回復すること、楽しめる可能性のある候補の物事をできるだけたくさんストックしておくことが有用であろう。特に、天気や他人の予定、気力の多少に左右されないことをストックしておきたい。
●の暇潰し状態も、暇潰しで受け流しつつも熱中できることを探すのが望ましい。


退屈な状態の具体例を考えてみる。
友達としゃべっているが内容がつまらない→「すべきことが単調で楽しくなくて退屈」にあたる。解放されるのを待つ、今後の動き方を考える。
仕事が単調でつまらない→同上。
病院の待ち時間が退屈→同上。本を持ってくる等。
友達と遊びたいが皆忙しい→☆の二つ目に相当。
連休なのに親が遊びに連れていってくれない→☆の二つ目。平日ならお絵描きや縄跳びなど、出掛けなくても楽しめることがあるのに、遊園地などに行きたいという気持ちがそれらを楽しめなくさせる。
読んでいる本がそんなに面白くない→「暇潰し」状態となり、お菓子に手が延びたりする。その本を読むのをやめて完全に楽しめることを探したいが、見つからなければ「何も楽しくない」状態になってしまうのでそれを回避するために「暇潰し」状態でお茶を濁し続けたくなる誘惑もある。なかなか難しい。


また、退屈から逃れる可能性を追い求めることができる状況にあるかどうかは人間の尊厳に関わると思う。
風邪や頭痛で寝ているか何もせずに座っていることしかできなくて退屈な状況は、人間の尊厳の小さな危機だ。病気や老齢でできることが少なくなるのも。体の痛みや周囲とうまくいかないことも辛いだろうが、それを紛らわせる何かを自分で探しに行きにくい。自分の不調に慣れていない段階では特にそうだ。
医学的な知識はないが、骨折で入院中に関係ない部位が動かなくなったり意識がはっきりしなくなったりするのも、退屈がそうさせている部分も大きいのではないかと思ってしまう。そして、状況によっては退屈が死に荷担することもあるのではないか。その人にもう退屈から逃げるすべを探す力がどこにも残っていないなら、それはそのときが死期だということかもしれないが。寂しいことだが、人間はそんなふうに退屈が極まれば死ぬしかないのだろうか。老衰と呼ばれる死はそういう死に方を含んでいるのではないか。