【小説】温かかっただけの人の思い出

私はその人の名前も年齢も性別も、何も知らなかった。ただその人の温かさだけがわかった。それで十分だ。

 

私はその日も山に登っていた。日々の疲れやストレスを感じたら、登りたい衝動から逃れられなくなる。整骨院の先生に「素人でこんな足は初めて見た」と言われた。

余程慣れているつもりであったが、その日のような事態は初めてだった。突然の吹雪に見舞われ、なんとか見つけた古びた山小屋に入った。真っ暗で何も見えなかった。何人かの声が聞こえた。先客がいるようだった。風の音が酷くなり、私は彼らとまともに会話もできずに夜になった。私と彼らは各々横になった。うとうとと、半分眠っていた。温かかった。寝ぼけたまま気づいた。知らない誰かに抱きついていた。その人もこちらに抱きついていた。お互い分厚い防寒着を着込んだままなので体型などがわかるわけではないが、相手の背を包む自分の腕と相手の腕に包まれた自分の背からゆるい圧力を感じる。そして何より、温かかった。そんな場合ではないが、これは人間の温み、そんな気がした。寝ぼけているのでそんなにはっきりと考えた訳では無い。ただ温かさが心地よくて幸せだった。相手がむにゃむにゃ言いながらこちらに身を寄せてきた。幸せそう、に思えた。私もその人の背中に巻きついた腕に少し力を込めた。

 

目が覚めると空は晴れていて、彼らは既に発ち、私は一人だった。無事山を下りた。

それからしばしば、なぜかあの日を思い出す。あの温みを思い出す。それは心地よくて、思い浮かべればよく眠れる。

話したことも顔を見たこともない、何も知らない、ただ温かいということしか知らないその人を、なぜか良い人だと思う。温いという点でその人を好ましく思う。きっともう会うこともない(会ってもわからないだろうが。)その人に、出会えてよかったと思うのだ。