【小説】穴

僕は喪失を知らなかった。
そのときまでは。
はじめから何も持っていなかったから、なくすものなんて何も無かった。
何も得たいと思わなかった。
探すことさえしなかった。
何かが有るなんて思わなかったから。
なのに天はあるとき気まぐれに、僕に意味を与えた。
生きる意味を。
突然だったけれど、僕にはその変化さえ日常に思えた。
実際、非日常なんてどこにもないはずなんだ。
それから僕はその画期的に変化した世界の中で生きた。
そのときは気づかないでいたんだ。
ぼくがどれだけその意味にしがみついて、頼りきってしまっていたかを。
そのときの僕にとって、只のそれまでの延長でしかなかった、意味の有る世界。
僕は確かにその中で生きていた。

 

犬が一匹、大きな家の広い庭に住んでいた。
庭の地面は真っ平らで、ゆるやかな平穏が広がっていた。
あるとき犬は宝物を得た。
大きな家に住んでいる子どもが、遊んでいて庭に落としてしまったおもちゃだった。
なめらかな表面が、光を受けて色を変えながら光っていた。
犬は広い平らな庭に、穴を掘った。
庭は自らの一部を削り、その宝物を受け入れた。
犬は満足そうに、これまでとはちがう新しい庭をかけまわった。
そこには、これからの自分が住むべき世界が広がっていた。

一週間か一ヶ月か一年たったかわからないが、地面から少し顔をのぞかせていたおもちゃを、子どもが見つけて掘り起こした。
庭は宝物を失った。
けれど庭は宝物を得る前とは明らかにちがっていた。
そこには以前は無かった穴が、ぽっかりと大きな存在感をもって、庭の真ん中に空虚をおとしていた。

 

意味は、突然消えてしまった。
突然、だったんだと思う。
僕がそれに気づいてゆく過程だけがゆっくりとじわじわと迫ってきたのだ。
それは変わらずそこにあるように見えた。
僕は残骸にすがり、だんだん僕の手は空をかき、そして、そこにおぼろげに、やがて鮮明に姿をあらわしたのは、穴だった。
「無い」、ということ。
それがどうしたのだろう。
あたりまえのことであるはずだった。

 

よく晴れた昼過ぎ、大きな家の広い庭にあいた深い穴の底で、小さな犬が死んでいた。