【思考】この視点2/身体と似たもの

前の記事『この視点1/準備』では「この身体-この視点」をサンプルとして、「身体-視点」を考えてみることにした。生物学的に見たら不要に思われる「視点」がなぜ存在するのか。
 
身体と似た機構について考えてみる。入力、処理、出力という一連の動きをするもの。(そこに視点が生じているかどうかはまず考えない。)どんなものがあるだろうか。
まず、人間以外の生物が考えられる。猿や犬猫、視点がありそうにも見えるものから、単細胞生物のようなものまで。人間の細胞一つ一つもそのうちに数えられる。そんなふうにより大きな機構の一部になっているものもある。集団で協調して動く蟻や微生物(人間も!)のような団体という機構の一部の一体一体もそんな身体に似た機構だし、団体そのものも入力があれば処理、出力をすると考えられる。
植物とその部分や団体もそうだ。種が土に埋められ水と養分を得られれば芽を出す。光が当たれば光合成をし、根の近くに水や養分があれば吸い上げる。森は雨が降れば水を溜め込む。木が切られたりして状態が変われば処理も変わり、水を溜め込まなくなる。
有機物だけでなく、無機物もそうだ。砂漠は風で姿を変える。福引きのあれは回せば一つ玉を出すし、ビリヤードというゲームの為のあのセットは人間による入力からカツンカツンと計算処理をしたのち玉をポケットに落としたりする出力を返す。
力学の実験装置。坂道と台車。台車を放せば一定の加速度で走る。これも坂と台車と重力(!)などによる入力と処理と出力をする機構だ。
宇宙から地球に太陽の熱が入ってくる。そしてなんかすごい巡り巡った後、また宇宙にその結果が出てくる。
 
ここまで書かなくても途中で気づいたが、あらゆるものは入力、処理、出力をする機構と呼べそうだ。どこでひとまとめにするかは任意。この世界全体(?)をひとつの機構としてしまうと入力や出力をするための外部がなくなってしまうからそれはできないが。否、その前にどんどん大きくしていけば物理的影響が原理的に届かないところがあるのだろうか。とにかく、物理的影響が届く限り任意だ。
どう区切るかによって、何が入力で何が処理で何が出力かは変わる。例えば、脳を含めた身体をひとつの機構と見れば、視神経などの中の信号は「処理」の過程だが、脳をひとつの機構と見れば、視神経などからの信号は入力である。
 
わかりやすい物とわかりにくい物があるが、そして複雑簡単様々あるが、あらゆるものは、あらゆる区切り方で、身体に似た機構である。
その中で少なくとも人間には謎の視点が存在する。
でも入力処理出力をする機構として、人間一人というものは上で言ったようにちっとも特殊ではない。複雑さということで特徴的だと言えるだろうか?否、地球をひとつの機構と見れば、それは一人の人間より複雑である。地球という機構の一部に人間も処理器官のひとつとして含まれるのだから。
しかし、人間の身体一つは地球と比べて、それを構成する要素の連繋度合いが強い、とりあえずはそう思われる。
(本当だろうか?人間の細胞一つ一つに言わせれば、自分達はそんなに連繋していない、自分勝手に動いているだけだ、となるかもしれない。)
 
私は一人の人間の視点に居るので、人間の身体に要らぬ視点がある不思議、と考えていた。しかも直感的に、同じように視点があるように感じられるのは他の人間なのだ。それは、他の人間が自分と同じ種で、密にコミュニケーションが取れるため、そう感じるのだろうか。どうして同じ種かそうでないかでこんなにコミュニケーションの取りやすさに差があるのか。ほとんど百とゼロのような差である。人間は蟻とコミュニケーションはほぼ取れないし、地球ともそうである。
入力や出力に、同じ意味や有用性を見いだせるかどうかということか。
コンピューターや家電など、人間が作った機械とはある意味コミュニケーションがとれていると言えるかもしれない。意図通り動かせて、意味がわかる状態で出力を受け取れる。それはもちろん、人間がそうできるように作ったからだ。
人間が(自分で作ったものを除いて)人間同士でしかまともにコミュニケーションが取れないのも、進化の過程でそうなったからか。猿ともコミュニケーションがとれた方が便利ではあるが、人間同士の高度な言語などを持ち且つ猿とも話せるということは偶然による進化には力量が足りなかったのか。
考えてみれば、人間の大人は自分達と似た文化と複雑さの者としかまともにコミュニケーションが取れない。赤ん坊がなぜ泣いているかは普通わからない。
 
話がそれた。視点を持ちそうなものとして人間の身体というくくりを持ってきたのは、他人というそれらが自分と密にコミュニケーションが取れる範囲であるということから来たのだった。
それと、自分と同じような機構である、という理由からだろう。この身体からこのような思考や動きが生じて、それを読み取る視点もある。なら同じ仕組みの他の身体にも視点があるかもしれない。
つまり、人間の身体と視点は結び付いているという方向に考えたかったのだろう。
この謎の視点の必然性を人間の脳を含めた身体に見いだせるだろうと思っていたのだ。
 
この視点の、身体に平行する状態の感じとり方は、当然ながら人間の機構に強く縛り付けられている。そうでない視点はどんなものか、かなり想像しにくい。(地球の視点?細胞の視点?)人間の手足の運動、視覚聴覚他の感覚。しかし、そのうちの一部が欠けた人間にもここで言う視点があると、直感的に感じられる。例えば視覚のない人にも。やはりそれはコミュニケーションが可能かどうかにかかるのだろう。ちなみに、そのコミュニケーションは言語によるものに限らない。似た知性を持っていることが重要なのかもしれない。
 
そのへんの直感でどう感じるかの話はおいておこう。
やはりこの身体とこの視点の話だ。この視点が生じる理由があるとすれば、どんなものが考えられるかだ。
 
でもやはりどんな処理にとって視点が必要かを考えると、他のもの(他の人間、猿、細胞、地球)に視点があるかどうかが関わってこざるをえないかもしれない。。