【連想散文】歯車

気分が相当に鬱いでいるときは芥川の「歯車」を読むとなかなか癒される。

 

うちのアパートの部屋は狭く、小さい店舗や事務所に使われている他は、知る限り独り暮らしばかりである。そこにうちは夫と二人で住んでいる。

私も夫もわりかしネットで物を買うので、宅配を受けとることは多い。配達の人達は「某様でよろしいですね」と確認する。そんな確認は常にするのだろうが、夫宛の荷物のときは受けとる私が女であるので、私宛のときは私の名が随分古風で私の歳の者には珍しい名であるので、配達の人は宛名を二度見するだろうと毎回思う。

夫の名は漢字を変えれば女の名前にもなるし、配達人は、こんな名の女もいるだろうと思い直すかもしれないなどとも考えながら受け取る。自分の名は古風だがそれも含めてたいへん気に入っている。亡き祖母がある俳人から取って名付けてくれた。

俳句垢であったツイッターでもその名を使っていたのだが、最近は必ずしも俳句中心のアカウントでもなくごった煮であるし、できるだけネットに本名は使いたくないので変えた。

 

新型コロナウイルスが流行している。教科書で見たオイルショックの写真よろしくスーパーやコンビニからトイレットペーパーが消えている。社会というものは意外と面白くて馬鹿馬鹿しいものである。

それで外に出られないのと、夫の仕事が忙しいことと、花粉症の薬のせいで便秘であることでだんだん鬱々としてきた。外に出られない以外は毎年あるので慣れてきて、また来たなという気構えでやり過ごすつもりであったのだが、やはり辛いものは辛い。

もともとよく眠るほうで、この頃は昼の一時頃まで寝ている。それでも一日が長い。もっと寝ていられたらいいのにと思う。

本を読んでも楽器を弾いてもあまり面白くない。編み物は少しましだ。集中せざるをえないからかもしれない。しかしそれを言うと楽器もそうだ。よくわからない。ツイッターを見るのもましなのだが、ぬるい湯につかっているときのように、心地好くはないのだが体が冷えたままなので上がることもできぬという体だ。テレビやゲームの電源を入れるのは億劫だ。何をすれば楽しいのか。

こんな退屈との戦いがあるというだけで、生まれたくなかったと思う理由としては十分であると思う。友人からの返信を五日ほど待っている。否、もう待っていない。死んだと思っている。あるいは本当に死んでいるかもしれない。人はよくよく死ぬものである。

そんなわけなので芥川の「歯車」などを開いてみる。電子書籍リーダーで。紙の本を手で持つと肩が凝るので嫌なのだ。紙の本の方が好きというやつは、家が広くて掃除好きで肩が丈夫か又は短時間しか読まないか、あるいは雰囲気読書家かどれかだと思っている。

今の私は集中力がなくて長い文を読み続けることは辛いが、「歯車」は前の流れを覚えていなくても、どの部分をとってもどこも鬱々としていてほっとしてたいへん良い。しかも直接的でなくさりげない。しかし確実で程度も十分に鬱々としている。ツイッターの厭世陣のつぶやきと違って現実でないのも良い。もともと私にとって本は現実からの最高の逃げ場だったのだ。ただしこんなふうに脳が疲れているとき長く読めないのが欠点である。